コンゴ民主共和国の残酷な歴史

ベルギーの国王レオポルド2世の私有地として支配が始まったコンゴ民主共和国は、その当初から、家族を人質にした厳しいノルマを課した。ノルマが果たせなければ腕を切断し、切断する腕がなくなると、子供達を含む家族の腕を切断し、その後殺害すると言う、言い訳の通用しない情け容赦のないものだったと言う。この時代に、コンゴの人口は半分の1000万人に激減した。
しかし、この統治により、レオポルド2世は、巨万の富と名声を手に入れ、ベルギー国内の公共的な建築物に多くの投資をしたことで、建築王として尊敬を集めた。

切断された五歳の娘の手首を見つめる男性。

コンゴには豊富な資源があり、その一つが天然ゴムであった。彼は先住民たちにゴムを採集させ、それを売りさばいていたが、採集量が落ちるとその労働者、またはその人質である妻や子供の腕を切り落とすことで罰とした。
ゴム採集の管理者である軍は、白人の下に未開部族から集められた黒人兵士を置くことで組織され、兵士たちは管理任務を果たしている証拠としてノルマに達しない住民たちの腕を次々と切り落としていった。
ついには切り落とした腕の数が給与に反映されるようになり、住民の方はそれから逃れるために他人を殺して腕を集めてくるというような状態にまでなった。
「手はそれ自体で価値を帯び、一種の通貨になった」とピーター・フォーバスの書籍「コンゴ河」で語られている。20世紀初頭コンゴ自由国産のゴムは世界総生産の10パーセントにまで達した。
世界史の窓
19世紀後半、コンゴ自由国は、激しい国際的な批判を受けて、1908年、「ベルギー領コンゴ」となった。

このコンゴ譲渡の際、レオポルド2世が住む王宮近くのかまどは約8日間燃え続けたと言われています。彼は自分の仕事のすべての記録を焼き尽くし、証拠を残しませんでした。彼自身の言葉で、「私は彼らに 『私の』コンゴを与えるが、彼らには私がそこで何をしたかを知る権利がない」

ベルギーはレオポルド2世時代のコンゴ自由国の無法な収奪を改め、行政府・民間資本・キリスト教伝道団の「三位一体」と言われる態勢で植民地経営に当たり、本国には植民地評議会を設けて現地をコントロールした。

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