日本人になった私に、誰も教えてくれなかったこと

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私は今月、帰化申請が認められて、正式に日本国民となった。国籍が変わるというのは、独特の感覚である。国の所属が変わったとはいっても、昨日の自分と中身はなにも変わらない。しかし、まるで別の自分の生まれ変わったかのような感じがする。見える景色も、少しだけ、それまでとは変わってくる。

帰化の結果を知らせる東京法務局からの電話を受け取った日の夜、いつものように駅のホームで電車を待っていた私は、なにげなくあたりを見回した。会社勤めを終えた人々が、私と同じように電車を待っている。そんな当たり前の景色を見ながら、私は「今日からこの人たちは、みんな自分の同胞なんだ」という、不思議な感慨に打たれた。

それまでも、同じ国に暮らす人間と人間という意味では、見ず知らずの彼らも、確かに私の仲間だった。しかし、日本人になった今、私にとって彼らは、「ただの仲間」ではない。「同じ国の国民として運命をともにする仲間」なのである。それは、これまで感じていたよりも、もっと深い、人間同士のつながりに思えた。そうした感慨を、日本人としての第1日目に知ることができただけでも、帰化をして本当によかったと心から思えた。

一方で、日本人になってみて、不思議に思ったこともある。それは、日本に暮らす国民の権利と義務についてだ。

法務局は帰化が認められた人に対して、証明書を交付するささやかな式典を行っている。同じ日に帰化した人々を集め、会議室で書類を手渡ししたうえで、戸籍をつくるための手続きなどについて説明を行う。

しみじみと不思議だったのは、式典に日の丸も君が代も存在しなかったことだ。

新たな日本国民を迎え入れるセレモニーということであれば、あっても良さそうなものだが、担当者の祝福のあいさつ以外は、テキパキと事務的に事が進んでいった。
その担当者のスピーチにしても、ある意味で考えさせられる内容だった。彼は、居住や移動の自由や、参政権といった国民の権利が日本国憲法で保障されていることを説明し、詳しくは日本国憲法を読むように、参加者にうながした。そして、これからも法律を守って幸せに暮らしていくようにと述べ、講話を結んだ。

ここまでお読みの方の多くはお気づきかもしれない。

そう、国民としての権利については丁寧な説明があっても、その反対にあるはずの義務については、誰も教えてはくれないのだ。たとえ憲法が、納税や勤労を国民の義務として定めているとしても。ましてや、「国を守る」ということが、最終的には国民の責任であることなど、誰も教えてはくれない。

 

続きは以下よりお読みください。
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