あゝモンテンルパの夜は更けて

「モンテンルパの夜は更けて」〜BC級戦犯の命を救った人びと

1945年(昭和20年)2月、日米両軍によるマニラ市街戦では日本兵はほぼ全滅。死者は一万六千人を超えました。一方で巻き添えにされたフィリピン民間人は、十万人にも及ぶといわれています。
今回は、終戦後もなお、フィリピンで抑留されていた戦犯者たちの命を救った人びとの足跡を紹介します。

◆ モンテンルパ刑務所

フィリピン・マニラ市内から南に約30キロ、サンペドロの町に近い丘陵地にある刑務所です。モンテンルパ市の丘の上にあるので、通称、モンテンルパ刑務所と呼ばれました。第二次世界大戦終結後、フィリピン全土で捕らわれた日本人(朝鮮人、台湾人を含む)が戦犯か否かの選別をされ、最終的に百数十人がここに送られてきていました。1949年(昭和24年)時点での受刑者は、死刑囚74人、無期刑30人、有期刑29人で重刑が圧倒的でした。彼等は、BC級戦犯者(※)でした。過酷な環境に押し込められて、日本からの救いの手は一切なく長い間、放置されていたのでした。

モンテンルパ刑務所 モンテンルパ刑務所 モンテンルパ刑務所

◆ 朝日新聞記者 辻 豊

日本軍砲台
▲日本軍砲台
 辻は、1952年(昭和27年)、日比賠償予備会談の取材目的でマニラに飛びました。「暇があったら一度訪ねてみようか」といった程度の心構えで刑務所に行き、加賀尾の案内のもとに106人の戦犯者と会いました。とりとめのないことをしゃべっているうちに辻は、偶然にも海軍予備校生だった同期の人間たちと出会い、想像もつかない辛い苦しい話を聞くことになりました。そして、死と直面しながら戦後処理の取引材料にされている仲間を見、戦争は片付いていない、と実感します。帰国後、すぐラジオ東京で比島戦犯の実情を訴える座談会を放送します。「死刑囚のおびえる夜の思い」がラジオを通して、日本中の人々に伝えられ大反響を巻き起こしました。

◆ フィリピン国会議員 ピオ・デュラン

デュランは、元日本駐在の大使で大変な親日家でした。日本に来るたびに留守家族と会い、帰国するとモンテンルパの戦犯者に手紙や食料を届けるのでした。

1952年(昭和27年)、デュランは、巣鴨の拘置所で慰問をしていた歌手の渡辺はま子と出会います。デュランは、モンテンルパの人びとの苦悩について語りました。「今すぐにでも行きます」というはま子でしたが、国交がないので不可能でした。デュランは、モンテンルパ刑務所に行った折に、はま子の気持ちを伝え、その後、はま子と加賀尾との間にパイプが繋がり、戦犯者たちと熱い心が交わされていきます。

◆ モンテンルパを歌った歌手 渡辺 はま子

渡辺 はま子
▲渡辺 はま子(1930年代)
 渡辺はま子は、1910年(明治43年)に横浜市で生まれました。1933年(昭和8年)、音楽学校を卒業すると、ビクターの専属歌手になります。この頃国内的には大衆文化が花開き、はま子は、押しも押されぬ流行歌手になっていきました。

その後1937年(昭和12年)、日中戦争がはじまると陸軍省報道部の依頼で従軍慰問に明け暮れますが、1945年(昭和20年)、終戦を迎え、天津で捕虜となります。

帰国後、相模原の旧陸軍病院、巣鴨拘置所などで再び戦犯者への慰問をはじめます。そこでデュランと出会い、後にモンテンルパ僧正と呼ばれる加賀尾に巡り合うこととなるのでした。

そのころ加賀尾は、モンテンルパの局面を打開するためには「歌によって日本人の心に訴えるしかない」と考えるようになり、死刑囚に対し、自分自身の手による詞曲作りを依頼します。

続きは、以下よりお読みください。
「モンテンルパの夜は更けて」〜BC級戦犯の命を救った人びと

モンテンルパ刑務所

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