チベットはどのようにして中国共産党に支配されたか

 中国共産党は、建国以来、数億人と言われる人たちを殺害、もしくは餓死などで死に追いやってきました。
その責任を後世に残すのを恐れるあまり、自分たちを被害者にしようと考え、日本を加害国にして歴史を改ざんし世界に流布するのみでなく、国民の憎しみの矛先が共産党政権に向かないよう、プロパガンダにも利用しています。
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斎藤 宏幸

中国共産党は、チベットをどのようにして支配していったのでしょうか?

昭和24年(1949年)10月1日、中国共産党は建国直後に、北京放送により次のような声明を発表。

チベットは中国の一部であり、チベット人を外国の帝国主義者より解放するためにチベット目指して人民解放軍が進軍するであろう」と。

そもそも、チベットは中国の一部ではなく、完全な独立国でした。それにチベットを侵略していた外国の帝国主義者というものもありませんでした。

この放送を聞いたチベット政府は、チベット代表団を北京に送り、中国共産党に対して次のように説明を求めました。

「中国の内戦中、我が国の平和は敗残兵の侵入に脅かされてかき乱されてきた。1949年9月29日にチベット外務局は毛沢東国家主席に対して、中国兵がチベット国境に侵入しないように要請したが、何も返答がなかった。

それどころか、北京放送を通じて、チベットは中国の一部であると宣言した。

ダライ・ラマ継承制度に関して、いかなる介入も受け入れるつもりはなく、チベットの独立維持の意思を中国政府に通告する」と。

これに対して中国共産党は、「チベットは中国の一部であることを認めよ」と迫り、交渉は決裂。

昭和25年(1950年)10月7日、4万人の人民解放軍が、東チベットの州都チャムドに侵略し、チベットは完敗。(Battle of Chamdo)

10月25日、中国共産党は、「300万のチベット人を帝国主義者からの弾圧より解放するため、人民解放軍のチベット進軍を命令した」と発表。

この「帝国主義者からの弾圧」とは、どこの国を指すのでしょうか?

人民解放軍の侵略の前に、チベットにいた西洋人はわずか6人でしたが、皆、人民解放軍のチベット侵略の前までに国外に出ていました。

11月7日、チベットは、国連に救済を求めて打電したが、国連は全く動きませんでした。

昭和26年(1951年)4月、チベット政府は、交渉のために北京に代表団を送りましたが、中国共産党は、代表団を拘束し、チベット政府との連絡する手段を断絶して隔離してしまいました。

チベット政府との連絡ができない中で、中国共産党は、17か条からなる協定案を、チベット代表団に提示しました。

これに著名しないなら軍事行動をとると、事実上の最後通牒を突きつけられたチベット代表団たちは、仕方なく著名してしまいました。

それまで、チベットは独立国家を維持してきました。

しかし、この17か条協定により、チベットは中国共産党の地方政府に格下げされてしまいました。

まだ15歳のダライ・ラマ法王とチベット政府は、北京放送により、チベット代表団が17か条協定に署名したことを知りました。

そして、人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐し、東トルキスタンと東チベットにも進駐してきました。

ダライ・ラマ法王は、中国共産党と再交渉を求めましたが、中国共産党は聞く耳を持ちませんでした。

そればかりか、中国共産党はチベット政府に対して、人民解放軍の駐屯用地と兵士たちの食料を要求してきました。

決して裕福とは言えないチベット経済は、この理不尽は要求により疲弊していきました。

さらに、中国共産党は四川からラサまでの道路(成蔵公路)と蘭州からラサまでの道路(青蔵公路)を整備していきました。

これは、人民解放軍が、チベット侵略を迅速に行うためのインフラ整備でした。

昭和29年(1954年)、中国共産党は北京で第一回全国人民代表大会を開催し、ダライ・ラマ法王を招待しました。

同年7月、ダライ・ラマ法王は、北京を訪れ、毛沢東や周恩来と会談。

昭和31年(1956年)4月、チベット自治区準備委員会が発足。

人民解放軍のチベット侵略により、チベット経済の疲弊、民衆の困窮、政治介入に不満を抱いたチベット人たちは、全土で、中国共産党に対して反乱を起こしました。

この反乱を鎮圧するために、人民解放軍は、チベット人たちを弾圧していきました。

そのような中、昭和34年3月1日、人民解放軍は、ダライ・ラマ法王に対して、ラサ郊外にある中国軍司令部での観劇の誘いをしました。

そして、人民解放軍は、その観劇の際にチベット人の武装警備隊を同行させないことを要求。

これは、拉致計画があると察知したチベット市民たちが、3月10日、約3万人のチベット人が、ダライ・ラマ法王を守るために、ノルブリンカ宮殿の周りを取り囲みました。

3月17日夜、生命の危機を感じたダライ・ラマ法王は、中国軍の目を盗んで密かに、ノルブリンカ宮殿から脱出。

3月19日、中国軍は、ダライ・ラマ法王の脱出に気づかないまま、ノルブリンカ宮殿を砲撃。

宮殿内に残っていた僧侶や民衆はほとんど全員が殺害されてしまいました。

もし、この時に、ダライ・ラマ法王が脱出していなかったら、殺されていたでしょう。

人民解放軍が、はじめからダライ・ラマ法王の殺害を目的にしていたことが明白でした。

人民解放軍は宮殿の破壊に続いて、チベットの一般市民を虐殺していきました。

その虐殺数は、昭和37年(1962年)3月までの間に、中央チベットだけで約93、000人にのぼりました。
(「新中国軍事活動紀実(1949年 − 1959年)」鄧礼峰 著 中共党史資料出版社)

周恩来首相は、「西蔵(チベット)地方政府」を廃止して、中国共産党の支配下に起きました。

昭和34年4月29日、ダライ・ラマ14世と8万人のチベット人はインドへの亡命をして、チベット亡命政権(中央チベット政権)を樹立。

翌年5月に、インドのダラムサラに移りました。

その後、昭和37年(1962年)までにチベット寺院の99%が、人民解放軍により破壊されてしまいました。

また、僧侶や尼僧の99.9%が地位を剥奪されてしまいました。

このころから、中国共産党は、チベット人に人民服の着用を義務付けるようになりました。

中国共産党に反抗するチベット人に対して、人民解放軍は、過酷な弾圧を繰り広げていきました。

「人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだった。

1959年に、国際法曹家委員会が出した報告書を読み、私の耳にしたことが本当であったことをやっと受け入れたくらいだ。

磔(はりつけ)、生体解剖、腹を裂き内臓を暴き出す、手足の切断などざらであり、

打首、焙り殺し、撲殺、生き埋め、馬で引き摺り回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残酷さは枚挙にいとまがなかった。

処刑の際に「ダライ・ラマ万歳と叫べないように舌を引き抜いたりもした」
(「ダライ・ラマ自伝」ダライ・ラマ著)

昭和41年(1966年)、中国共産党は、中国人民へ数千万人規模の大虐殺を行いました(文化大革命)が、チベット人虐殺とチベット寺院の破壊活動は、その数年前から行われていたのです。

このように、中国共産党は、チベットの文化と伝統を物理的に完全に破壊して、また精神的にも破壊して中国に吸収させようとしました。

これは現在進行形で、今も続けられています。

参考図書
「チベット自由への戦い」櫻井よし子著

参考画像
1959年のラサ蜂起

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