Why did Korean become anti-Japanese? The reason had very sad story.

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本当に、日本統治時代の影響で韓国人は日本人を憎んでいるのか?

どういう文脈で、日本と韓国の対立が作られていったのか

第二次世界大戦の終戦直前、アメリカ合衆国は核兵器の開発に成功します。戦争終結によって各国で生じた支配層の空白に一方的に欧米資本を流入するチャンスが生まれたのです。

核の恫喝を利用した米国は、反共を口実とした諸国の民族による自立阻止、旧体制の影響力の排除を行います。体制維持のための暴力と圧制はエスカレートし、朝鮮半島は、ベトナムと並んでとくに激しい歴史を経験することになりました。

米国の朝鮮進駐から始まる、戦後の朝鮮史を追ってみよう。

混乱からの解放と海外資本の浸食

資本主義による国家の解放は、常に新しい資本による浸食を伴う

一時的に占領支配された国や、独裁的だった体制から民衆が解放されると、人々は、それまで支配していた資本から脱却することを目指します。

反資本の動きが、一見すると、社会主義への移行を自然に促しているように見えます。しかしそれはシステムの移行を目指しているのではなく、単に従来温存されていた利権を拒否するという態度に過ぎません。

新しい一歩を始めようとする諸国民と、侵入の機会を伺う海外資本

第二次世界大戦が終盤に近づくと、外国資本は次々と敗戦国やその支配地域の経済を視野においたビジネスの準備を始めます。戦争に疲弊した諸国は、終戦と同時にこれらの企業や国家の圧力を受け止めなければなりませんでした。

第二次大戦の後半になると、ポーランドやルーマニアなどで旧体制が崩壊していきます。しかし、戦争は激しく、西側諸国は、資本の種をまくことができませんでした。人々は新しい体制を自ら作り始めます。

混乱する資本主義

資本主義諸国は困惑していた。

戦争の後に、外国から資本を投入し、新しい体制を構築すると ころにこそ、戦争の利益があります。しかし、第二次世界大戦中に解放された諸国は、外国資本を求めずに、自ら自立へと動き始めてしまうのです。これは、第 一次世界大戦中に発表された民族自決の考え方に従う動きでもありました。西側諸国は、これらの動きを「共産主義化」と呼び、弾圧しようとしました。結局、 諸国民は当時成功していたソビエトの社会主義革命の指導を求めるようになっていくことも少なくありませんでした。

アメリカ合衆国のルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていました。一方、ソ連のスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答しています。

この違いはどのように生まれたのでしょうか?

第二次世界大戦終戦直前のソ連対日参戦

第二次大戦の最終局面の直前まで、ソ連と米国は協力していた。

終戦の半年前、まだ米ソは連合国として協力する立場にあり、 決して強い対立関係にはありませんでした。アメリカは核兵器開発に成功すると、米ソの対立は朝鮮半島を飲み込みながら冷戦への道を歩むことになります。そ の変化は、終戦前後の短期間に急激に進みました。まずはその流れを追ってみましょう。

終戦の半年前、現在のウクライナ、クリミア半島のヤルタ近郊でアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談が行われました。目的は、戦後体制の英米ソの利害調整を行うことでした。

このとき、米ソは、連合国として協力関係にありました。終戦直前のこの会談の時点ではまだ、東西対立は明確ではなかったのです。第二次世界大戦で疲弊せず残った二大国アメリカとソ連が、分担して戦後処理をするという現実的な合意に至っています。

ソ連は諸民族の民族自決と無賠償・無併合を要求していました。実際の ところ、なにも外国資本が介入しなれば、社会主義化していくことが見込める情勢にありました。アメリカ合衆国は、ソ連と戦後利益を分配することを要求する のが精いっぱいだったのです。米国の保守体制は苦しい情勢に置かれていました。すでに膨大な投資を行い、マンハッタン計画をはじめとした秘密予算も、容認 されないほど膨れ上がっていました。戦争からの利益をなんらかの形で回収しなければ、合衆国経済どころか、資本主義体制が崩壊する情勢でした。

核兵器の完成

第二次世界大戦の終戦直前、核兵器を手に入れたアメリカ合衆国

1945年7月16日、アメリカ合衆国はトリニティ実験を行 います。世界最初の核実験でした。この日付は、ポツダム会談開始の前日、そして広島への原爆投下のわずか20日前でした。この日を境目に、東西の立場が逆 転します。世界は激動の数ヶ月を経験することになったのです。

トリニティ実験の成功は、単に巨大兵器を成功させたという以上の意味を持っていました。戦後の権力の空白地帯を根こそぎ米国資本の下に置ける可能性が生まれたのです。

莫大な費用を費やしたマンハッタン計画の成果として、米国はその見返りを必要としていました。

ポツダム会談

戦後ドイツの占領を議論するはずだったポツダム会談の直前に原子爆弾が完成
→日本への最後通告を突然議題にしたアメリカ合衆国

ヤルタ会談から5か月後、ドイツの降伏を受けて、ドイツのポツダムで会談が設けられました。これは、ドイツの戦後占領を議論するために設定された会議でした。しかし、突如日本への最終通告がテーマになります。

ポツダム会談が始まったのは7月17日、じつに人類最初の核実験であるトリニティ実験の成功の翌日でした。直前までトルーマン大統領は、スターリンに対日参戦を促していました。

そもそも対日問題を協議する場ではなかったポツダム会談で、突貫で作られたのがポツダム宣言だった。

英国のチャーチル首相が帰国、ソ連のスターリンに非通知、中華民国の蒋介石が不在、という状況で米国が一方的に公表したポツダム宣言。その背景には核兵器量産化成功という決定的な事実がありました。

米国は、日本への最終通告を発表する決定をする直前に、日本への原爆投下命令を発動。

ポツダム宣言の通告を各国に伝達する「直前」、合衆国大統領は日本への原爆投下命令を発しました。各国が受け入れなければ、アメリカ合衆国単独でも日本への最終通告を行うという強い意思がありました。

敗戦に向かう大日本帝国

それまでソ連に対日参戦を依頼していたアメリカは、ソ連の対日参戦に先んじて日本への原爆投下と占領支配の開始を行うべく、一刻を争って動き始めた。

ソ連のスターリンはこのとき、米国の核実験成功を感知してい ました。核開発の情報は、米国による核技術独占を怖れた科学者の一部によって密かにソ連に伝えられていたからです。米国は、ソ連の対日参戦によって米ソが 終戦を導くという結果ではなく、米国の圧倒的な核兵器によって終結させるという終戦を欲します。

ソ連が対日参戦に動き始めた

日本は情勢悪化を把握、なんとか国体保護や国土保衛を条件と した有条件降伏に持ち込もうと画策していました。一方、米国は、早期無条件降伏に持ち込むことを意図して、ソ連に北方からの参戦を求めていました。ソ連 は、アメリカの原爆投下に先んじて対日参戦すべく、急ぎ始めました。

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