Why did Korean become anti-Japanese? The reason had very sad story.
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本当に、日本統治時代の影響で韓国人は日本人を憎んでいるのか?
どういう文脈で、日本と韓国の対立が作られていったのか
米国の朝鮮進駐から始まる、戦後の朝鮮史を追ってみよう。
混乱からの解放と海外資本の浸食
資本主義による国家の解放は、常に新しい資本による浸食を伴う
一時的に占領支配された国や、独裁的だった体制から民衆が解放されると、人々は、それまで支配していた資本から脱却することを目指します。
反資本の動きが、一見すると、社会主義への移行を自然に促しているように見えます。しかしそれはシステムの移行を目指しているのではなく、単に従来温存されていた利権を拒否するという態度に過ぎません。
新しい一歩を始めようとする諸国民と、侵入の機会を伺う海外資本
第二次世界大戦が終盤に近づくと、外国資本は次々と敗戦国やその支配地域の経済を視野においたビジネスの準備を始めます。戦争に疲弊した諸国は、終戦と同時にこれらの企業や国家の圧力を受け止めなければなりませんでした。
第二次大戦の後半になると、ポーランドやルーマニアなどで旧体制が崩壊していきます。しかし、戦争は激しく、西側諸国は、資本の種をまくことができませんでした。人々は新しい体制を自ら作り始めます。
混乱する資本主義
資本主義諸国は困惑していた。
戦争の後に、外国から資本を投入し、新しい体制を構築すると ころにこそ、戦争の利益があります。しかし、第二次世界大戦中に解放された諸国は、外国資本を求めずに、自ら自立へと動き始めてしまうのです。これは、第 一次世界大戦中に発表された民族自決の考え方に従う動きでもありました。西側諸国は、これらの動きを「共産主義化」と呼び、弾圧しようとしました。結局、 諸国民は当時成功していたソビエトの社会主義革命の指導を求めるようになっていくことも少なくありませんでした。
アメリカ合衆国のルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていました。一方、ソ連のスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答しています。
この違いはどのように生まれたのでしょうか?
日露戦争で日本は、米国系ユダヤ人らから借金をして戦争を行い、「ロシアに勝利」しました。しかし、実際には、同じユダヤ人がソビエトに金を回し、ロシアの崩壊を誘導して…
第二次世界大戦終戦直前のソ連対日参戦
第二次大戦の最終局面の直前まで、ソ連と米国は協力していた。
終戦の半年前、まだ米ソは連合国として協力する立場にあり、 決して強い対立関係にはありませんでした。アメリカは核兵器開発に成功すると、米ソの対立は朝鮮半島を飲み込みながら冷戦への道を歩むことになります。そ の変化は、終戦前後の短期間に急激に進みました。まずはその流れを追ってみましょう。
終戦の半年前、現在のウクライナ、クリミア半島のヤルタ近郊でアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談が行われました。目的は、戦後体制の英米ソの利害調整を行うことでした。
このとき、米ソは、連合国として協力関係にありました。終戦直前のこの会談の時点ではまだ、東西対立は明確ではなかったのです。第二次世界大戦で疲弊せず残った二大国アメリカとソ連が、分担して戦後処理をするという現実的な合意に至っています。
ソ連は諸民族の民族自決と無賠償・無併合を要求していました。実際の ところ、なにも外国資本が介入しなれば、社会主義化していくことが見込める情勢にありました。アメリカ合衆国は、ソ連と戦後利益を分配することを要求する のが精いっぱいだったのです。米国の保守体制は苦しい情勢に置かれていました。すでに膨大な投資を行い、マンハッタン計画をはじめとした秘密予算も、容認 されないほど膨れ上がっていました。戦争からの利益をなんらかの形で回収しなければ、合衆国経済どころか、資本主義体制が崩壊する情勢でした。
核兵器の完成
第二次世界大戦の終戦直前、核兵器を手に入れたアメリカ合衆国
1945年7月16日、アメリカ合衆国はトリニティ実験を行 います。世界最初の核実験でした。この日付は、ポツダム会談開始の前日、そして広島への原爆投下のわずか20日前でした。この日を境目に、東西の立場が逆 転します。世界は激動の数ヶ月を経験することになったのです。
トリニティ実験の成功は、単に巨大兵器を成功させたという以上の意味を持っていました。戦後の権力の空白地帯を根こそぎ米国資本の下に置ける可能性が生まれたのです。
莫大な費用を費やしたマンハッタン計画の成果として、米国はその見返りを必要としていました。
原子爆弾の作り方・マンハッタン計画に至る科学の歴史のまとめ
トリニティ実験によって、アメリカ合衆国は核兵器を手に入れ ただけでなく、実は、核兵器の量産体制を実証していました。米国は、カネと時間をかければできるガンバレル式ではなく、技術的難易度は高いが、一旦成功す れば量産可能である爆縮型プルトニウム爆弾を完成させたのです。こうして、戦後世界への強い影響力行使が始まりました。
ポツダム会談
戦後ドイツの占領を議論するはずだったポツダム会談の直前に原子爆弾が完成
→日本への最後通告を突然議題にしたアメリカ合衆国
ヤルタ会談から5か月後、ドイツの降伏を受けて、ドイツのポツダムで会談が設けられました。これは、ドイツの戦後占領を議論するために設定された会議でした。しかし、突如日本への最終通告がテーマになります。
ポツダム会談が始まったのは7月17日、じつに人類最初の核実験であるトリニティ実験の成功の翌日でした。直前までトルーマン大統領は、スターリンに対日参戦を促していました。
そもそも対日問題を協議する場ではなかったポツダム会談で、突貫で作られたのがポツダム宣言だった。
英国のチャーチル首相が帰国、ソ連のスターリンに非通知、中華民国の蒋介石が不在、という状況で米国が一方的に公表したポツダム宣言。その背景には核兵器量産化成功という決定的な事実がありました。
米国は、日本への最終通告を発表する決定をする直前に、日本への原爆投下命令を発動。
ポツダム宣言の通告を各国に伝達する「直前」、合衆国大統領は日本への原爆投下命令を発しました。各国が受け入れなければ、アメリカ合衆国単独でも日本への最終通告を行うという強い意思がありました。
1945年7月26日 ポツダム(potsdam,germany)で署名されたポツダム宣言は、日本の歴史の教科書ではなぜか原文が記載されず、単に「無条件降伏」とだ…
敗戦に向かう大日本帝国
それまでソ連に対日参戦を依頼していたアメリカは、ソ連の対日参戦に先んじて日本への原爆投下と占領支配の開始を行うべく、一刻を争って動き始めた。
ソ連のスターリンはこのとき、米国の核実験成功を感知してい ました。核開発の情報は、米国による核技術独占を怖れた科学者の一部によって密かにソ連に伝えられていたからです。米国は、ソ連の対日参戦によって米ソが 終戦を導くという結果ではなく、米国の圧倒的な核兵器によって終結させるという終戦を欲します。
ソ連が対日参戦に動き始めた
日本は情勢悪化を把握、なんとか国体保護や国土保衛を条件と した有条件降伏に持ち込もうと画策していました。一方、米国は、早期無条件降伏に持ち込むことを意図して、ソ連に北方からの参戦を求めていました。ソ連 は、アメリカの原爆投下に先んじて対日参戦すべく、急ぎ始めました。
どのように東西冷戦が始まったのかのまとめ
ポツダム宣言からわずか10日後、核実験に初成功してからわずか20日後、広島に原子爆弾が投下された。
原爆投下とほぼ同時に、ソ連対日参戦も開始された。
このとき米国とソ連は協調していたわけではありません。互い に一刻を争っていました。ポツダム会談でアメリカの動きを察知したスターリンはただちにソ連極東軍に電話、一刻も早い対日参戦を命じています。ソ連のス ターリンも米国のトルーマン大統領も、米国の核兵器が世界にもたらす影響力をよく理解していました。
実はとても慌ただしく行なわれた原爆投下
広島への原爆投下の三日後1945年8月9日未明にソ連の満州への侵攻が開始されました。同日ソ連侵攻のわずか11時間後に、日本では長崎に原爆が投下されることになります。
広島への一撃で、日本は降伏しませんでした。この機会に、ソ連は対日侵攻を開始します。ほぼ同時に、アメリカ合衆国はただちに長崎への二発目の投下を実施、先を争って両国は動いていました。
連合国の首脳陣は、まだ朝鮮半島を強く意識していませんでした。ギリギリまで、日本の領土分割を議論することで精一杯でした。しかし、一転して、朝鮮半島が東西の最前線へと変化していくことになりました。
終戦直前の朝鮮半島の動き
ソ連軍の南下によって、在外邦人は危機的状況に陥った。
ソ連の対日参戦で日本の敗戦は決定的なものとなり、今や、日本軍の任務として在外邦人保護は最重要任務となります。8月10日、ついに大本営から避難の命令をうけました。
満州では首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していた
日本軍による脱出作戦で鉄道輸送されたのは、3万8000人。そのほとんどは満鉄の関係者と軍関係者で、それ以外の邦人は、結果的に見捨てられました。
このとき、70万人の日本人が朝鮮半島に残留しており、平壌(現在の北朝鮮の首都)の防衛のために第34軍が配備されました。しかし、兵力は非常に低水準、補給も期待できない状況でした。そして、避難するにも朝鮮半島には退路がなかったのです。
追い詰められる日本の朝鮮総督府
日本の敗戦が濃厚となった1945年8月、大日本帝国領となった朝鮮を統治していた朝鮮総督府も、重大な決断を下さなければならない状況に追い込まれる。
ソ連軍が侵攻してくる一方、朝鮮半島には退路がありません。日本の朝鮮総督府は、ソ連軍による制圧を怖れて、それまで朝鮮総督府とパイプのあった朝鮮人活動家への統治権の移譲を計画しはじめます。
第一次大戦後すでに設立されていた大韓民国臨時政府が本格稼働へ
1919年、朝鮮の独立運動を進めていた活動家(李承晩、呂運亨、金九など)によって設立された臨時政府を作っていた。
李承晩、呂運亨、金九といった代表的な独立活動家は、第一次世界大戦後にはすでに中国の上海に臨時政府を作って日本支配に対抗していました。
人類平等(人均)・民族平等(族均)・国際平等(国均)という三均主義を理念としていた
三均主義は、経済・教育の均等を内容にした政治・経済・社会的民主主義原理でした。しかし、米国資本にとって、都合の悪いこの考え方は、戦後すぐに迫害の対象となっていきました。
彼らは戦後の朝鮮の独立運動の中心となっていきました。
太平洋戦争末期には、彼らの多くは亡命し、アメリカ、ソ連、中国などで政治活動を継続してました。
国外で独立運動を戦っていた人々でした。
混乱する朝鮮総督府
約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。
朝鮮総督府政務総監遠藤柳作は呂運亨なる人物と接触し、解放後の治安維持のため行政権の委譲を持ちかけたのです。
8月10日、朝鮮半島で独立運動を展開していた呂運亨のグループは、日本降伏を見越し密かに建国同盟を結成していました。終戦の5日前のことでした。
日本の朝鮮総督府は、呂運亨に権限移譲を申し入れます。
彼は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。党の垣根を越えて朝鮮人による建国を目指したのです。
呂運亨は考えた。朝鮮建国には、知日派の力を必要とする
呂は短期間で朝鮮の独立を達成するべく速やかに動き始める。
今や日本の降伏は刻々と近づいていました。朝鮮の独立活動家 らにとって、国家建設のために使える時間は極めて限られていました。呂は、日本との提携及び宋鎮禹、曺晩植(以上明治大学卒)、金性洙、安在鴻(以上早稲 田大学卒)など、日本留学を経験している知日派の力が、独立後の体制作りに必要不可欠と考えました。
当時は、朝鮮総督府が統治を行っており、その体制を引き継ぐことが速やかな国家建設に必要、そのための人材が不可欠だというのは現実的な判断でした。
朝鮮は外国の軍隊のないまま8月15日終戦を迎え、突然の「解放」というニュースのみがもたらされた朝鮮半島
朝鮮半島で独立の機運が急速に高まります。しかし、独立派はまったく準備のできない状態で「解放」を与えられてしまったのです。このとき、多くの朝鮮人は国外に逃れており、政治活動家はまだ中国やアメリカ、ソ連など国外に居ました。
呂運亨だけが政府建設を率いることができるだろうと日本の朝鮮総督府が判断したのは当然のなりゆきでした。
独立に失敗した朝鮮人民共和国
独立に失敗した「朝鮮人民共和国」
呂運亨は朝人民共和国の独立を9月6日に宣言。しかし、連合軍側(アメリカ)は朝鮮人による建国を認めませんでした。樹立宣言の翌日の9月7日アメリカ軍は仁川に上陸。アメリカ合衆国極東軍司令部が南朝鮮に軍政を布くことを一方的に宣言します。
拒否された民族自決、始まった軍政と夜間外出禁止令
同日、夜間通行禁止令が出され、1982年に解除されるまで続くことになりました。ここに、米軍による軍政の時代が始まりました。軍政の目標は、戦後の朝鮮半島に、米国資本にとって都合のよい、米国のいいなりになる体制を構築することでした。
朝鮮人民共和国は、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を一時的に引き継いでいました。しかし、連合軍の命令によりあっという間に取り上げられてしまいます。
9月9日、朝鮮総督府がアメリカ軍への降伏文書に署名。9月11日にアメリカによる軍政を開始し、朝鮮人民共和国及び建国準備委員会を否認しました。
朝鮮人による独立は失敗に終わったのです。これに先だって、8月16日には米国がソ連に38度線での分割占領を通知。ソ連はそれに合意しています。
アメリカ軍政下の南朝鮮と、韓国民主党の成立
アメリカ合衆国の操り人形になる政権樹立への動き
1ヵ月後の1945年10月に李承晩(イ・スンマン)なる人物がアメリカから朝鮮半島に帰国しました。
「独立建国運動の中心人物」となります。
李承晩は第二次世界大戦中、ほとんど朝鮮半島には居なかった人物でした。彼は、大韓民国臨時政府に名を連ねてこそいましたが、アメリカでロビー活動を展開していた活動家でした。
李承晩は米国の選ぶ最初の代理人となった。
彼の主張は、反共産主義での朝鮮半島統一。当時の朝鮮の活動 家の中ではほとんど唯一の右派活動家であり、大韓民国臨時政府のメンバーの中で、もっとも米国支配に都合のよい政治家でした。米国は、日本の指名した呂運 亨による新政府を認めず、米国社会と繋がる李承晩を利用した支配を求めたのです。
長い間朝鮮半島を離れていたため、朝鮮にまったく資金的足がかりをもっていなかった李承晩は後ろ盾として、事業家だった金性洙に接近します。東亜日報や高麗大学校、韓国民主党の設立者としても知られる人物です。教育とマスコミを支配できる立場にいました。
金 性洙は、日本支配の大韓帝国で財を成した実業家でした。彼は、実利主義の商人であり、1947年にアメリカのトルーマン大統領が、 トルーマン・ドクトリン(反共宣言)を発表すると、当時韓民党主席総務だった金性洙は、トルーマンに対し賛辞を示す無線電報をただちに送りました。
アメリカ合衆国は日本の占領政策が始まったまさにその直後から、メディアコントロールを重要なものとして扱った。その体質調整は、数十年たっても維持できるほど強靭なもの…
モスクワ3国外相会議
終戦後の利害調整のために行なわれたモスクワ三国外相会議
アメリカが朝鮮問題を、東西問題としてとらえ、対立勢力の追い出しを積極的に行ったのに対し、ソ連は、朝鮮人による南北問題ととらえ、朝鮮人による統一国家設立の後押しをするという立場をとっていました。
民族自決を押すことで自発的な社会主義化を促したいソビエトと、民族自決より前に資本を投入したいアメリカという構図が、対立しました。
モスクワ三国外相会議では国連での原子力委員会設置検討が声明として盛り込まれ、翌46年にはを安全保障理事会のもとに設立することが決議された。
第二次世界大戦直後の年、核兵器の国際的な統制の必要性が世界中で議論の的となりました。原爆開発に関わった科学者たちは、「原子力の国際統制」の必要性を説き、1945年11月には米英加3国によって原子力の国際管理を司る委員会の国連への設置が提案されていました。
朝鮮半島の独立がなされるまでは、アメリカ・ソ連・イギリスに中国を加えた4か国による最長5年間の信託統治を要すると決定
ヤルタ会談に続き、朝鮮側の代表者不在の状態で、朝鮮の信託統治を決議しました。モスクワ3国外相会議では、米国も合意したかのようにみえますが、翌年には意見対立が明確化し、決裂します。
この会議での合意事項は、原子力の国際管理と、朝鮮半島の最長5年間の信託統治、5年後の南北統一選挙でした。しかし、核の独占を背景に、アメリカはその全てを破り捨てます。
米ソ対立が表面化
核開発のリードを利用したいアメリカが、ソ連と対立
米国は国際管理体制が機能するようになるまでは原爆を保有し続けると主張、即時の国際管理を求めるソ連と意見対立します。国連原子力委員会は48年5月に無期限休会しました。ソ連は独自の核兵器の開発を進めることとなりました。
国連原子力委員会は無期限休会へ、朝鮮半島の未来も不確実になっていった。
核廃絶を要求するソ連と、挑発的核実験を繰り返す米国が対立
信託統治下で設置する臨時政府を樹立するための協議対象に信託統治に反対する政党や社会団体を参加させるべきでないとするソ連側と、参加させるべきとするアメリカ側との意見が対立。
1946年5月には朝鮮半島をめぐる議論も決裂します。
歴史的な情報操作
李承晩を支援する事業家の金性洙が所有する東亜日報が「誤報」する。
朝鮮半島で、金性洙が所有する東亜日報がモスクワ三ヶ国外相会談でソ連、信託統治を主張 アメリカは即時独立を主張と報じます。
実際はその様な事実はなく共同宣言では米英ソ中四ヶ国の監督下による暫定政府の樹立と、その後の朝鮮半島全体選挙による民主的政権への移行が謳われていました。
親米派の李承晩は朝鮮の人々をミスリードする「誤報」を積極的に利用しました。
朝鮮半島の反発
1945年12月のモスクワ3国外相会議において朝鮮半島を信託統治する方針だと報じられると、これに反対する運動(反託)が韓国各地で展開されることになります。
信託統治ではなく、朝鮮人が朝鮮半島を統治すべきだという考え方は、国連の謳う民族自決を訴えるごく当然の主張でした。
しかし、彼らは意図的に勘違いさせられていました。モスクワ3国外相会議で決議されたのは、少なくとも5年後の南北統一選挙と独立でした。
米国は、南朝鮮単体での独立を画策していました。
信託統治の決定に反対の声をあげる朝鮮の市民
民衆が、信託統治に反対するデモを始めます。米国の目論見、そして李承晩の目論見は、民衆に信託統治に反対させ、南北朝鮮統一選挙の実施をさせないことでした。そうすることで、南朝鮮単体での独立を目論んだのです。
実は、終戦直後から米軍は朝鮮半島の軍政による統治に失敗、民衆の不満は高まっていました。すでに支配下にある南朝鮮単体での分離独立は、米国にとって現実的で合理的な選択肢とみなされていました。
混乱するソウルは4つの勢力に分裂
1946年1月7日、(親米派の)李承晩が信託統治の反対声明書を発表
李承晩らは、政府準備組織として「大韓独立促成国民会」を結 成。「大韓民国臨時政府」から離れ、李承晩と韓国民主党などは、南朝鮮単独の独立を強行する動きを始めます。「誤報」によって、南朝鮮独立という話にすり かえる李承晩。それは米国にとってもっとも都合の良い選択肢でした。
金九(大韓民国臨時政府系)は、信託統治に反対しつつ、南北統一政府樹立を主張する
李承晩らの進める南朝鮮の単独独立と対立する。「南北統一政府の即時独立」を求める金九はアメリカと対立します。南朝鮮の単独総選挙反対声明した金急は、結局、暗殺されることになります。
左翼系(朝鮮共産党・朝鮮民主主義民族戦線など)信託統治賛成、南北統一政府樹立
信託統治は受け入れ、南北統一政府を樹立しようとする立場。モスクワ三国外相会議の共同声明に従う方針を示したグループでした。結果的にソ連が支持することになり、結局北朝鮮の有力勢力となっていきました。
中間派(呂運亨、金奎植など)信託統治問題については意見を保留、左右合作による南北統一政府樹立
終戦直後の独立に失敗した大韓民国臨時政府系は、信託統治問 題について意見を保留しつつ、朝鮮人による南北統一政府の樹立を望み、派閥を超えて国家建設をしようとする立場でした。だが、やはり独立を望んだため、ア メリカと正面から対立することになります。呂運亨も結局、暗殺されました。
米軍による軍政の信任低下
米軍による軍政は全く準備が不十分なまま開始していた。
米軍による軍政は歴史的背景や朝鮮半島の情勢を学ぶ間もなくはじまっていました。朝鮮内部での意見調整が進むより早く、アメリカ軍による軍政の信任の低下が進んでいきました。
1946年5月に南朝鮮全土にコレラが流行し、慶尚北道だけで、4000人が死亡。その後、水害による交通破綻や強制拠出などにより、米価が日本統治時代に比べて10倍以上に高騰。
反軍政の動きが強まっていきました。
反軍政の声が高まる一方、親日・知日派や、共産主義勢力が、支持を集め始めた。
事態を収拾できないアメリカの軍政。親日・知日・共産はいず れも米国にとって望ましくない勢力という位置づけになりました。米国は、モスクワでは表向き朝鮮半島全体での統一国家樹立に合意していました。しかし、こ のまま選挙にもつれこみ、支持を失った李承晩は惨敗し、米国の影響力の及ばない政権が樹立されてしまうことになってしまいます。それは米国にとって受け入 れられない可能性でした。
アメリカは、5年間で信託統治を終えるというモスクワ会談での合意のため、短期間で親米政権を樹立する地盤を作らなければならない状況にあった。
反米の高まった状況で最初の政権が樹立されることを最も嫌いました。軍政が完全に信任を失う一方で、一刻も早く、反米勢力を消し去る必要が生まれました。非合法手段を含む手段を問わない方法で。
南朝鮮労働党の結党
南朝鮮の社会主義勢力が一大勢力となっていきました。後に北朝鮮労働党と合併し、朝鮮労働党となります。現在の北朝鮮政府の前身となる政党でした。
1946年11月に朝鮮共産党・朝鮮新民党・朝鮮人民党が合併し、朴憲永(パク・ホニョン)を中心として南朝鮮労働党を結党します。彼らは米軍の軍政において政府の強い迫害を受けることになり、主要な反政府勢力の一つとなっていきます。
大邱10月事件
10月1日に大邱府庁前での抗議デモに対して南朝鮮警察が発砲して市民を射殺します。
南朝鮮全土が収拾がつかなくなっていく
デモへの警察の対応に対して、南朝鮮全土で230万人が参加する騒乱が起きました。抗議活動が収拾がつかない事態となったため、10月2日にはアメリカ軍が戒厳令を布告しました。
蜂起する市民、武力鎮圧で殺害された数万人の民衆
米軍政の土地及び食糧政策の失敗に対して、1946年10月には230万人の朝鮮人が連合国に対して蜂起する大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出ました。
米国の推し進める南北分離独立に反対する市民による蜂起とそれに対する武力鎮圧が行われ数万人が殺害されました。
アメリカ軍支配下の南朝鮮で事態が悪化していく
アメリカは南朝鮮の分離独立を急ぎ始める
南朝鮮全体の混乱が高まり、米国による軍政の支持が失われてくると、朝鮮半島全体が共産化する可能性を危惧し始めます。これらの動きは戦後1年~2年という極めて短い期間に進行しました。
その後、政府は南朝鮮労働党の関与だと断定して政府軍によって6万人を虐殺する
韓国軍などにより済州島で蜂起したものは弾圧されました。治安部隊は潜伏している南朝鮮労働党の遊撃隊員と彼らに同調したとみなした島民の処刑・粛清を行うことになります。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われました。
短期間で米国の軍政の支持を取り付けることは不可能な状態で、積極的に反米勢力排除を始めます。
すなわち、反共と反「親日」の二つの活動を始めたのです。それは暗殺や虐殺という暴力を伴うものでした。
朝鮮建国準備委員会の呂運亨が1947年7月19日、韓智根によって暗殺された
重要人物の暗殺があいつぎました。建国準備委員会はその後 も活動を続けていたのですが、軍政庁はこれを非合法とみなしていました。暗殺以前にも、荒縄・棍棒・拳銃・手榴弾・手製爆弾などによる計12回のテロに遭 い、しかし当時の警察は、犯人を検挙したことはなく、時には犯人の肩を持つような態度を見せることもありました。その暗殺はドロドロと妖しいものでした。
こうして、反「軍政」の1勢力である、親日・知日派への弾圧が行われました。以後、南朝鮮では親日=反政府とみなされるようになっていきます。
1948年3月12日には独立運動家の金九、金奎植、金昌淑、趙素昂らが、南朝鮮の単独総選挙反対声明
あくまで、朝鮮人による民主的国家樹立を目指す独立運動家達は、李承晩による強引な南部分離に大反対する。
李承晩の位置は親米であって、朝鮮半島の独立という観点は無視する立場でした。
金九らの立場は朝鮮民族の独立というものでした。李承晩や米国と正面から対立することになる政治主張でした。
金九も結局、暗殺されてしまいます。
南北朝鮮の独立を要求した活動家はことごとく暗殺された。
大規模弾圧事件の発生:済州島四・三事件
在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にあった南朝鮮は、政治活動家の暗殺に留まらず、南朝鮮の分離に反対する者が多い地域の市民を地域ごと弾圧した
歴史的な大量虐殺事件が発生します。1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にあった南朝鮮の済州島で、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺されたのです。
済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きる
韓国国内で起きていた、南北統一国家樹立を訴えるデモが韓国 全土で党派を越えて発生していました。米国主導の南朝鮮分離政権に反対するデモは、当時の朝鮮半島ではありふれた出来事でした。警官による発砲事件は、単 なる偶発的なものではありませんでした。李承晩政権は、暴動に持ち込もうとしていたのです。
島民は団結して警察による殺害を批判、合法的ストライキに突入します。
済州島は、歴史的に政治犯の流刑地でした。三無、「泥棒がいない」「乞食がいない」「外部からの侵入を防ぐ門が無い」といわれていました。彼らのおかれた状況、厳しい自然環境を克服するための協同精神が発達していたと言われます。ゼネストに突入しました。
在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロを行わせた。
軍政は、鎮圧行動を正当化できるような暴動を求めていました。そのためには、合法的なストライキでは不十分でした。白色テロとは、政府側が支援して行うテロのことです。右翼青年団体を送り込みテロ行為をさせるという、非合法な弾圧が米軍主導で行われました。
住民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こす。
南朝鮮労働党は、ゲリラ戦で対抗するようになります。しかし、この動きはそもそも白色テロを企画した米軍にとって期待した蜂起でした。虐殺の口実を得ることができるからです。
韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺しました。
済州島は、政治犯の流刑地としての歴史を持ち、本土から差別されていました。また、島であるため本土に影響が飛び火しにくいという地勢にあります。この済州島は、米国による粛清の始まりとして非常に都合の良い土地でした。
韓国政府の弾圧に対して、軍の内部からも反乱が起きる
あまりにひどい韓国政府の弾圧に対して、軍の内部からの反乱が発生します。済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧のため出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、反乱が起きたのです。
韓国政府の左翼勢力摘発は過酷を極め、反乱部隊に加えて、非武装の民間人8000名が殺害された。
多くの者が日本へ密航・逃亡し在日韓国・朝鮮人となる背景となった
この時期に弾圧を逃れた者たちは、共産党勢力または親日とみなされた者たちだった。創氏改名により日本名をもち、日本語教育を受けた彼らは、日本へ逃亡し、多くの在日朝鮮人が生まれた。
反乱は麗水郡から隣の順天郡(現在の順天市)にも及びました。李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間後の10月27日に反乱部隊は鎮圧されました。残兵はその後北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続きます。
事件処理で韓国政府の左翼勢力摘発は過酷を極め、反乱部隊に加えて、非武装の民間人8000名が殺害されました。多くの者が日本へ密航・逃亡し在日韓国・朝鮮人となる背景となりました。
南朝鮮労働党への韓国政府の迫害に対抗すべく、金日成は朝鮮人民軍を創設
もう一つの勢力、金日成は南半部(北緯38度線以南)への送電を停止
後に北朝鮮を建国する金日成もまた、朝鮮半島の朝鮮民族全体での自立を訴える政治家の1人でした。
南朝鮮における労働党迫害、米国主導の南朝鮮分離の動きをうけて、彼は南朝鮮への送電を停止して対抗しました。
米国によるテロ・暗殺の動きは、北朝鮮にも波及しました。
ドロドロの情勢の中で米国主導で大韓民国が成立
アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した状態で、1948年5月10日、総選挙が大反対の中で強行された。各地で反対派による武装闘争が展開されることになる。
国連監視下で行われた選挙
「国連監視下」決して、公平とも公正ともいえない、選挙がかぶった冠でした。
総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制しました。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていました。
終戦から3年、米国傀儡政権の誕生でした。
大韓民国憲法とともに「反民族行為処罰法」が制定された。
統治機構は日本の朝鮮総督府を引き継いでいましたが、あまり にドロドロした状況で作られた親米独裁政権を維持するためには、「親日」勢力を行政から除去する必要がありました。すでに軍での反乱まで経験していた「新 政権」は、積極的に思想弾圧を進め、暴力を行使してでも、親日派や共産主義勢力を徹底的に排除するしか選択肢がありませんでした。
アメリカ軍政庁傘下の韓国教育評議会(Council for Korean Education)が組み立てた教育制度を、全国で完全に実施する。アメリカとの強固な同盟関係を求める一方で、北朝鮮や日本を敵視する政策を実施した。
日本統治時代に朝鮮発展に貢献した主要人物は親日反民族行為 者に認定され、罰せられることになりました。また、調査のために反民族行為特別調査委員会が置かれ、武装した特別司法警察職員が該当者を逮捕尋問すること が法的に認められるようになるなど、親日と認定されること自体が社会的なリスクを伴うようになっていきました。
反民族行為特別調査委員会 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 、 検索 反民族行為特別調査委員会 各種表記 ハングル : 반민족행위자특별조사위원회 漢字 : 反民族行爲特別調査委員會 テンプレートを表示 反民族行為特別調査委員会 (はんみんぞくこういとくべつちょうさいいんかい)とは、 1949年 に 大韓民国 制憲国会 で制定された、 反民族行為処罰法…
大韓民国に対抗して北朝鮮も成立
金日成は米国主導の大韓民国樹立に対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。
大韓民国の建国宣言まで、金日成は国家を名乗ることはなかっ たことに注意しましょう。ソ連の指導のもとで、統治機構を安定させることがもともとは彼の目標であり、北朝鮮を分離独立させようという動きはそもそもあり ませんでした。米国主導での南朝鮮分離は、金日成に国家建設の決断をさせることになったのです。
もともと、モスクワ三国外相会議での合意内容は、最長5年間の信託統治でした。それまでに基盤を安定させ、朝鮮人による全体選挙が行われるというのが約束されたストーリーでした。
しかし、米国は、強硬に米国主導で大韓民国が強引に成立させることを選びました。正面から「民主的」な選挙を行うことで親米でない政権が樹立されることは絶対に受け入れませんでした。
こうして、南北分離が固定化してしまうことになりました。
国連もまた、米国の操り人形としてふるまっていました。国連の謳う民族自決の原理は、いとも簡単に無視されてしまったのです。
大韓民国樹立後の国家統制
1948年、大韓民国刑法制定に5年先駆けて「韓国の国家保安を脅かすような反国家活動を規制することで国家の安全と国民の生存・自由を確保することを目的」と謳う、国家保安法が成立。
『国家保安を脅かすような反国家活動を規制する』
『国家の安全と国民の生存・自由を確保する』
「反国家団体」の構成、自発的支援、金品授受だけでなく、これを「称賛」したり「鼓舞」するだけで罪に問われるようになりました。この法律の成立をうけて、国家統制はより過激化していきました。
1949年の1年間に国家保安法によって検挙された人数を118,621人
国民の中から、李承晩政権に敵対しうるとみなされたものは、次から次へと検挙されていきました。
反体制勢力の登録制度
国家保安法の翌年、「転向者達を体系的に保護・管理・監視する機関」として「国民補導連盟」が作られます。
これにより、左翼的とみなされる者を、登録し、データベース化することで、反李承晩・反米勢力を一元的に管理することができるようになりました。
30万人以上が登録されました。この登録は、後の集団虐殺へと繋がっていきます。
国民保導連盟は転向者が義務的に加入することになっており、活動目標は大韓民国政府を絶対支持し北朝鮮政権を絶対反対し、共産主義思想を排撃することであった。
多様な反政府勢力を簡単に撲滅対象である左翼とすることができるようになり、李承晩政権の権力強化に寄与したところが大きかった。
繰り返される大虐殺
1949年12月24日には、韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こした。
共産匪賊に協力したなどとして、韓国陸軍第2師団第25連隊の第7中隊第2小隊第3小隊が非武装の女性、子供、老人の88人を射殺しました。
李承晩政権下での虐殺の中では、小規模なものでした。
共産主義者による犯行であると情報操作した
李承晩政権は、陸軍部隊を派遣し、住民を虐殺、共産主義者による犯行と断定し、事態を隠蔽しました。強権的な独裁体制が構築されるとともに、親日あるいは共産主義を擁護する発言はタブーとなっていきました。
2009年8月6日、ソウル高等法院(高等裁判所)は不法行為を認めた上で、時効の成立とし、遺族による賠償請求を棄却します。
金日成による南進を許さなかったソ連
金日成は悲劇の続く南朝鮮で李承晩を倒し統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。
北朝鮮は、その後も南北統一政権の樹立を希求することになります。この時点では、まだソ連は原子爆弾を保有していませんでした。アメリカ合衆国に全面戦争をする口実を与えれば、米国が核兵器を行使することが予想されたのです。
すでに米国が核兵器を獲得していました。一方、ソ連はまだ、原爆を持っていませんでした。
米ソの直接対決は避けるというのはソ連にとって、当然の判断でした。
日本や日本の旧植民地の統治は、ほぼ米国主導で進められていきました。米国は、第二次大戦後の利益を最大化するために核兵器の脅威を利用しました。
ヤルタ会談までは議論されていた日本の分割統治計画も、廃案となっていった歴史を持っています。
韓国は、建国された朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めず、反国家団体による不法占拠であるとした上で大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国連もこれに従った。
金日成の北朝鮮は、南進の機会をうかがうことになります。そのチャンスはすぐに訪れました。
核開発競争、ソ連がアメリカにおいつく
アメリカ合衆国は、原子爆弾を共同開発した英国やカナダにさえも、各技術の移転を禁止し独占保有しようともくろんでいました(マクマホン法)。
しかし、脆くも米国の核兵器リードは戦後4年で失われてしまいます。
朝鮮戦争の勃発
アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン – 沖縄 – 日本 – アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない
このアメリカ国務長官の発言が、金日成に大きな決心をさせることになります。単なる米国の失言だったのか、それとも朝鮮半島全土を支配するための意図した発言だったのか、あるいは、何かを背景にした圧力があったのか、、
1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官がこのように発言すると、金日成は「アメリカによる西側陣営の韓国放棄」と受け取りました。
スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案します。
米国は、すでに反米勢力の排除を終えたものと考えていました。今や日本占領に腐心しており、朝鮮半島にそれほど大きな注意を払っていなかったという事情もありました。
北朝鮮は、アメリカが傀儡政権の維持を放棄するのであれば、北朝鮮としては南北統一の機運と判断した。
ソ連の核開発の成功、アメリカ国務長官の無責任な失言、そして米国の支援する韓国政府による朝鮮人の弾圧、これらが、金日成による朝鮮戦争突入の原因となりました。
朝鮮戦争への突入
当時の北朝鮮は、中国での内戦に兵を派遣しており練度も高く、装備も充実していた。
当時の北朝鮮は、中国での内戦に兵を派遣しており練度も高く、装備も充実していました。
一方、米軍は情勢の安定しない韓国に対し、米軍は韓国に重装備をまったく支給していませんでした。これは、米韓軍事協定に基づくものでした。
米国は、韓国がある日突然、反米政権を樹立し米国と敵対する悪夢をまだ捨てきれていなかったのです。
韓国軍は内部の反政府勢力と相変わらずの闘争を続けており、ゲリラ討伐などで疲弊していました。さらに、反「親日」の必要性から、旧朝鮮総督府系の役職員を追放したことで、組織を一から作り直さなければならない状況にありました。
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。
米側の説明では、完全な奇襲ということになっている。約10万の兵力が突然、38度線を越えたとされます。
韓国軍はなすすべもなくソウルまで後退していきました。やがて首都も陥落することになります。
漢江人道橋爆破事件
朝鮮戦争開戦から二日後、政府はソウルを捨て、遷都を決定
6月27日深夜1時、中央庁において招集された非常国務会議で、政府の水原移転が決定されました。ソウル市民については当初より移動計画はなく、この席でも何らの対策も講じられませんでした。
出典wmk.kr
政府が水原への遷都を発表したことで、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知りました。
避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥りました。
その避難路の漢江人道橋は、約4000名の避難民が渡る状況で爆破され、約500-800名と推定される避難民が犠牲となりました。
民間人だけでなく、韓国軍部隊も退路を失う形となった。韓国軍主力は、北朝鮮軍の強圧もさることながら、自ら過早に退路を遮断したことが決定的な要因となって、信じられぬ速度で崩壊していった
マジか、、、韓国が反日になった本当の理由が哀しすぎた。
本当に日本統治時代の影響で韓国人は日本人を憎んでいるのでしょうか?その背景を理解するには、終戦から現在の韓国に至る複雑で残酷な悲劇の歴史を理解する必要があります。大国の思惑で操作された政治体制や思想は韓国や日本に今でも残されているのです。
更新日: 2016年04月28日
palezioさん
戦後米国に無理矢理擁立され、強権により反体制勢力を駆逐していった、李承晩政権の課題は、独裁体制の維持でした。
一旦強権発動によって作られた体制は、さらにそれをエスカレートしなければ維持できません。悪夢のような悪循環が進みます。
6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。
北朝鮮の進行中も止まらない、韓国政府と米軍による反政権派虐殺
収監されていた数十万人の政治犯が米韓連合軍(国連軍)の軍命で処刑されていた
米大使館武官室は、ソウル陥落後、敵軍によって釈放されないようにという名目で、政治犯を処刑させました。朝鮮半島から、李承晩体制に反発しうる大量の人々が、命を奪われて排除されました。
李承晩政権とアメリカ軍は、北朝鮮の侵攻の初動で失敗しました。その失敗をとりつくろうには、危険分子の処刑が必要であると判断されます。
李承晩政権は、この指示に応じ、すでに反李承晩派のデータベースと化していた「国民補導連盟」の登録者や、習慣中の政治犯・民間人を大量虐殺します。親日・知日派や、共産主義者が犠牲となりました。
爆破事件で、市民のみならず、軍部隊内部でも不信が拡大する中、より大規模な虐殺事件が発生します。
その規模は、100万人を越えるとも言われています。
20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された。
李承晩は、ソウルからの待避の直前、国民保導連盟の加盟者や民間人の処刑を命じた。
傀儡国家における戦争の悲劇
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を全会一致で採択した。
拒否権を持つ中ソ連が欠席、米国主導で行なわれた安保理決議は、「北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告」
アメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成。
李承晩政権を公然と軍事支援する名目を得た米国は、国連軍の名を用いて、軍隊を朝鮮半島に派遣することになりました。
7月1日、軍部の指示に基づき、大田刑務所に収容されていた収監者中、一般犯を除外した思想犯1千8百余名を朗月洞の虐殺が決定される。憲兵と警察が銃殺した後、穴に埋めました。
アメリカ軍地上部隊が投入される。
烏山の戦い、大田の戦いで敗退し、アメリカ軍は後退を余儀なくされていく中、退路のない朝鮮半島内の韓国軍はさらに追い詰められていきました。
1951年初頭、北朝鮮・中国両軍の攻勢を受けた韓国軍 は、前線の後退(1・4後退)作戦を敢行し、国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになりました。しかし、防衛軍司令部 の幹部達は、国民防衛軍のために編成された軍事物資や兵糧の米などを、処分・着服します。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食 糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者・凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となりました。
朝鮮戦争
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出した。北朝鮮軍および中華人民共和国の義勇軍も多くの損害を出した。
日本の朝鮮戦争参戦
GHQ支配下にあった日本も、朝鮮戦争に派兵した。
朝鮮戦争において、実は日本の特別掃海隊が派遣され、機雷除去に参加し、そして56名が命を落としたという経緯があった。
日本はいつの時点で、主権を確立したのでしょうか。サンフランシスコ講和条約、「日本国との平和条約」(Treaty of Peace with Japan)という正…
停戦
1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
1952年1月18日に、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は、李承晩ラインを宣言します。竹島、対馬の領有を宣言したのです。
連合国占領下にあり自国軍を持たない、かつての宗主国である日本への強硬姿勢を取るようになりました。
北朝鮮内部の粛正
続く米国による北朝鮮内部工作
表向きの戦争は終わりましたが、米国による南北朝鮮への諜報活動、北朝鮮の転覆を謀る工作活動は続きました。
初期の北朝鮮は、複数の派閥があったが、それでも韓国に対する共闘という立場を維持していました。
対立が明確になったのは朝鮮戦争後でした。東西の諜報戦と工作が行われる中で、北朝鮮の政権中枢でもスパイによる内部崩壊の工作が頻発します。
これに対抗するためには、金日成はスターリン型の政治手法を採用しなければらなくなります。疑惑のあるライバルを次々と排除し、個人崇拝を伴う金日成派による独裁体制を完成させていきました。
朝鮮戦争中、米国軍部の暴走が目立ち始め、また、韓国政府もそれを利用しようとしました。
マッ カーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用の提言など、戦 闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した状況が相次いだのです。
結果的にマッカーサーは解任されることになります。しかし、ソ連および東側諸国は、西側の核兵器コントロールに不審を抱くことになりました。
今 ならまだ韓国軍は戦線を維持できます。しかしこの機を逃せば、中国と北朝鮮の共産主義者共は、我が軍を壊滅させ、反共主義勢力を滅ぼすでしょう。 (中 略) マッカーサーに、共産主義侵略を阻止する原子爆弾使用許可を与えるべきです。モスクワに原子爆弾を数発落とせば、世界の共産主義者共は震え上がるで しょう。
李承晩大統領は、アメリカトルーマン大統領宛に、ソビエト連邦首都への原子爆弾を使用した民間人大量殺戮を示唆する書簡を送っています。
朝鮮戦争と核兵器
毛沢東は戦前には核兵器を「張り子の虎」と読んで軽視していたが、朝鮮戦争終了後には核開発を本格的に開始している
ソ連の核保有がなければ、米国は実際に核攻撃をしていた可能 性があり、逆にソ連の核保有がなければ、スターリンは朝鮮戦争を許容しなかった可能性がありました。しかし、ソ連が核保有しなければ米国による一方的な世 界支配がさらに進められていった可能性もありました。核保有の政治的意義は朝鮮戦争を通して明確化しました。
その後、中国、北朝鮮、フランスなども核保有への道を歩み始めます。
原爆を開発すると、実は簡単に水爆にたどりつくということが分かるまとめ
北朝鮮が核開発を開始する
1956年3月と9月、旧ソ連との間に原子力開発に関する基本合意を行い、数人の科学者を旧ソ連のドゥブナ核研究所に派遣した。
小規模の実験用原子炉であるIRT-2000研究用原子炉 の供与を受け、寧辺に建設されました。ソ連は、原子力の協力は平和利用に限定されるべきとの立場を崩しませんでした。この年、アメリカは水爆の開発に成功 し、その脅威を国際社会に宣伝するとともに、トルコや沖縄のようなソビエト近傍も含む同盟国への核兵器配備を進めようとしていました。
米国の動きに対抗するためには、ソ連は必然的に北朝鮮に核兵器を移転する検討をはじめなければならなくなります。
ソ連は1957年に最初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、大陸間弾道ミサイルの技術を獲得する。
スプートニク以前は、飛行機による爆撃による核戦争を想定しており、それは核兵器を敵国の付近に配備しなければならないことを意味していました。
核兵器の大型化競争は、水素爆弾をすでに実現していましたが、いまや核兵器輸送や爆撃を困難にしていました。大陸間弾道弾の可能性を示したことで大型兵器の実用性を獲得したソ連は米国よりリードしたのです。
その後ようやく、米国が、軍縮への動きを認めるようになり、同年IAEAを設立、米英ソは核実験を休止し、いわゆる「核実験モラトリアム」の時代を迎えます。
1960年、フランスはアルジェリア戦争において「核実験」を行った。それは、自国植民地における核実験というタテマエをとったものの、アルジェリアの独立戦争(アルジェ…
1960年、フランスが事実上国際紛争の解決の手段として核兵器を使用します。これをきっかけにソ連は核実験を再開、東西緊張は最高潮に達し、「キューバ危機」へと歩みを進めることになりました。
朝鮮戦争後の60年代、一時的に民主化の機運も軍事クーデターにより独裁へと戻る
1960年代から冷戦末期にかけて、民主化運動が高まると、軍事クーデターで再転覆されるというケースが繰り返されることになる。
1960年の選挙のころには、李承晩政権は完全に支持を失っていました。独裁を維持するためには、あらゆる手法で不正選挙を行う必要がありました。その内容は笑い話かと思えるほど強引なものでした。
キューバ革命が成功し、日本では60年安保闘争が繰り広げられていた時期だった。
核の脅威によって米国が戦後体制を動かそうとしていた流れは、ソ連の人工衛星成功によって、逆流し始めます。
朝鮮戦争を通じて、韓国政府と米国の思惑が露呈し、12年続いた独裁体制は、もはや継続することが不可能な情勢となっていました。
与党自由党は全力を注ぎ、官憲や暴漢を動員した不正選挙を展開しました。
自由党は有力野党である民主党を封じるために早期選挙を計画した。
李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定。野党が想定しないタイミングでの選挙を強行するという手段をとります。
野党、民主党の趙炳玉候補が、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝
李承晩の対立候補が、米国での手術後に、謎の死を遂げます。これにより大統領選挙は候補者1名の状態に陥りました。
信任投票となった選挙でも、あからさまな投票操作が行われた。
韓国の選挙法上、台頭両候補が1人の場合は有権者の1/3の得票を得る必要があります。しかし、これさえ達成できそうになかった李承晩政権は、さらに公務員・警察を動員した大規模な選挙不正を実施しました。
1960年3月に行われた第4代大統領選挙における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が、ついに下野します。
四月革命と呼ばれる出来事でした。
民主化に失敗
求められたのは「アメリカに従う民主主義」キューバ革命のまっただ中、米国は韓国の民主化を許容しなかった。
アメリカは、この民主化の動きを容認するわけにはいきません でした。キューバ革命では、アメリカの支援していたバティスタ独裁政権が打倒され、今やカリブ海のまさに米国の目と鼻の先に、共産主義国が誕生していまし た。韓国の民主化は、アメリカ資本に追従しない韓国の誕生につながる恐れがありました。アメリカが朝鮮半島を失うこと、それは絶対に認められないことだっ たのです。
アメリカ合衆国は、沖縄に核ミサイルを配備した。かくして、中国、朝鮮半島、ソ連の一部、そして日本列島の大部分を射程に入れた。
韓国の民主化を認めない勢力は、再度クーデターによってこれを転覆した
民主化の動きは当然のように否定されました。すぐに軍事クーデターが行われ、親米の軍事政権が成立することになります。同じ頃、キューバ危機が勃発、米ソの対立は最高潮となっています。
1961年5月16日、朴正煕らは、軍事革命委員会の名の下、クーデターを起こし、4月革命で成立した政権を奪取します。
クーデターから三日目の5月19日、アメリカ国務省は軍事政権への支持を発表。「軍事政権による反共体制の強化」と「腐敗の一掃」、「合憲的政府」の再樹立を標榜する革命公約に大いなる期待を表明します。
新しい保守体制の構築
クーデターを首謀した朴正煕は、1963年に大統領となりました。
自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていった人物です。2014年現在の大統領、朴槿恵(パククネ)の父親にあたる人物です。
このとき、新しい保守の歴史が動き始めたのです。
ベトナム戦争への派兵
朴正煕の独裁政権下はアメリカの要請に応じてベトナム戦争への派兵を決定します。ケネディ大統領は、韓国のベトナム戦争参加に反対の立場でした。しかし、米国でも怪しい動きが発生します。ケネディ大統領は暗殺されたのです。
1964年 – 1973年にかけて、大量の韓国軍将兵をベトナムへ派遣することになりました。
「泥沼化した」と、一言で片付けられてしまい、「冷戦だから仕方ない」でごまかされがちなベトナム戦争。あまりよく知らないひとも多いベトナム戦争は、どのような流れで起…
ベトナムも第二次世界大戦後の一時的な解放と、欧米資本の再 流入に伴う悲劇的な歴史を歩むことになります。ベトナムの独立を指導したホーチミンらは、旧宗主国であるフランスの支配を振り払いましたが、さらにフラン スの空白を狙うアメリカ合衆国の驚異と長きに渡って戦わなければなりませんでした。
韓国の核開発
1975年9月、米国は韓国がフランスから核再処理施設を導入しようという事実を知り、それに反対した。
1957年に国際原子力機関へ加盟した直後から韓国は、原子 力エネルギーの開発を進めてきました。その後1962年には最初の研究炉が臨界に達し、商用の原子力発電は1978年に古里原子力発電所で始まります。フ ランスは、韓国へも再処理施設を持ち込もうとしましたが、米国は強硬に反対しました。この時点でも、アメリカ合衆国はまだ、韓国の共産化をいう可能性を排 除していなかったことが伺われます。
朴正煕(パク・チョンヒ)政権時代の1976年、核燃料再処理施設を導入しようとしたが、米国が待ったをかけたため計画断念に至ったが、そのときの詳細が14日、外交通商部の外交文書公開により明らかになった..
再度民主化の機運
1979年~80年、韓国経済を襲ったスタグフレーシヨンと第二次オイルショック、そして低賃金と悪労働条件のなかで諸権利を奪われた労働者の『生存権』を賭けたたたかいが、炭鉱、繊維を始めとして全国で拡大した。
1979年、朴正煕の政権に抵抗する革命が勃発します。
金 泳三が、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』の記者との会見(9月10日)で、8月に発生したYH事件と絡めて政局を非難した上で、アメリカ政府が公開 的・直接的影響力を行使して、朴政権の反民主的行動を牽制するべきであると、発言したのです。与党は、金泳三の議員除名に動きます。
しかし、学生・市民が反独裁・民主化を要求した大規模デモを実施し、抵抗し始めます。
朴正煕が暗殺された
10月26日中央情報部長官・金載圭(キム・ジエギュ)が、宴席で朴を暗殺したのは、このような民衆の反政府運動への対処を巡る意見の対立によるものということになっています。
極右勢力により、朴正煕が暗殺される事件が発生します。これで韓国が軍事政権から民主的な政権へと移行する、、、かに見えました。
しかし、そんなにやすやすと韓国の民主化を認めるアメリカ合衆国ではありませんでした。
ソウルの春
1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)されると、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就任し、12月6日には統一主体国民会議代議員による選挙で第10代大統領に選出された。
拘束されていた政治犯68名を釈放するとともに、金大中の自宅軟禁を解除した事から、独裁体制が緩和されるという期待が膨らみ、ソウルの春と呼ばれる民主化ムードが台頭しました。
東京高等師範学校を卒業し、満州で学んだ、いわゆる知日派の大統領が選出されます。その後、ソウル大学で教授職に就き、その後官僚から首相まで出世していました。彼は朴正煕暗殺後の短期間大統領職に就くことになりました。
再び、軍事独裁政権が鎌首をもたげる
暗殺された朴正熙前大統領の寵愛を受けていた全斗煥や盧泰愚(ノ・テウ)を中心とする新軍部勢力が、公然と政治へと関与し始めたのです。
今や保守勢力の背景は財閥と軍部であり、「民主化」の動きは資本と軍事力の両面で容易に転覆されてしまう構造ができあがっていました。
1979年12月12日に大韓民国で粛軍クーデターと呼ばれる軍内部の反乱事件が発生。
クーデターは、朴正煕暗殺事件において合同捜査本部長の任にあった保安司令官の全斗煥陸軍少将が首謀、第9師団長盧泰愚陸軍少将らとともに、軍内部を掌握することになります。
彼らは、朴正煕政権時代にハナ会と呼ばれる秘密組織を形成し、政府・軍の要職を独占しており、いわば朴正煕政権によって育てられた権力層となっていました。そして、彼らの背景には、韓国に興った財閥と、在韓米軍との繋がりが形成されていました。
5.18光州民主化運動
米国主導ではない民主化は、容認されるものではなかった。
→再び、悲劇的な弾圧事件が発生。
12月のクーデター後も、学生を中心とした民主化デモが頻発。翌年4月には5万人規模、5月には10万人規模へと拡大していきました。
5月17日、戒厳司令部が非常戒厳令を済州島を含む全国に拡大します。
5 月18日、戒厳司令部が金大中、文益煥、金鍾泌、李厚洛など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。政治活動の停止、言 論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などを盛り込んだ戒厳布告を発表。同日未明、光州市の全南大学と朝鮮大学に陸軍第七空挺旅団の三三大隊と三五大 隊を配置。
群集は70万人以上に膨れ上がり、対峙した軍・警察は3万人
クーデター政権は、運動家を逮捕、言論統制を布き、学生運動の武力鎮圧に歩みを進めます。
光州(クァンジュ)事件
光州の町全体を道路封鎖で孤立させ、報道を一切遮断するといった極めて計画的な襲撃を行った
出典弘瀬隆著「脅迫者の手」
韓国軍の作戦統制権を持っていた在韓米軍のジョン・ウィッカム司令官が韓国軍部隊の光州投入を承認、アメリカ政府も秩序維持を名目にこれを黙認しました。
アメリカ海軍は釜山港に空母を含めた第七艦隊を展開
後にクーデター政権を支持することになるアメリカや日本などではメディアが、光州暴動、光州騒乱と表現しますが、光州虐殺(The Kwangju Massacre)と表現されることもあります。
戒厳軍は、国際法で禁止されているダムダム弾を使用し、その証拠を残さないために負傷者も殺害した。死体は焼却されて捨てられたという。
全斗煥政権へ
ソウルの春は、全斗煥の粛軍クーデターと、光州事件の武力鎮圧で挫折し、民主化は結局、1987年を待たなければなりませんでした。クーデター政権は、非常戒厳令拡大措置(1980年5月17日)を実施、政治の実権をも掌握しました。
全斗煥派による軍事政権によるデモ弾圧を米国や日本は支持しました。韓国の軍事政権を支援していたのは、アメリカ合衆国、軍部、そして財閥でした。結局、暗殺された朴正熙と同系統の政権が維持されることになったのです。
強引にねじ伏せる形になった光州事件以降、強力な軍政によって政体を維持することになった全斗煥政権でしたが、米国は、軍事独裁による傀儡政権の維持という方法を取り続けることが困難になってきたことを意識し始めます。
日本の保守勢力との繋がりを拡大した全斗煥政権
1981年9月30日、国際オリンピック委員会総会で、日本の名古屋と開催地を争い、52対27の大差でソウルが開催地に選ばれます。
このオリンピック開催は、韓国の政治体制を修正されるために利用されることになります。
我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である
異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない
日本政府は、アメリカに追従し、この軍事クーデターを黙認支持する立場でした。全斗煥は、一方的な反日を避ける立場をとりました。戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど、日本と向き合う姿勢を強調した大統領となります。
ソウルの春 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 、 検索 ソウルの春 各種表記 ハングル : 서울의 봄 漢字 : – 英語 : Seoul spring テンプレートを表示 ソウルの春 (そうるのはる)とは、 1979年 10月26日 、 韓国大統領 の 朴正煕 が 暗殺 された10・26事件( 朴正煕暗殺事件 )の直後から翌1980年5月17日の 非…
抑えきれなくなる民主化の動き
光州事件以降、アメリカへの批判が起こり、韓国人の対米観が大きく見直されることとなった
強引にねじ伏せる形になった光州事件以降、強力な軍政によって政体を居辞することになった全斗煥政権でしたが、強硬措置を執り続けることはやがて困難になっていきます。
ソウル大学言語学科の学生だった1987年1月、治安本部に連行された。逃亡中の先輩の所在を尋ねられ、口を噤んだため、治安本部に水拷問をされ、死亡する事件が発生。
内務部長官に任命された鄭鎬容は、「人が人を殴れるわけがない」と拷問の事実を否定。しかし、鄭鎬容が光州事件時に特戦司令官であったことから、人々の疑念を招いた。
日本では、治安本部長が「机をぱたっとたたいたらあっと叫ん で死んだ」と発表したと報じられたため「ぱたっとたたいたらあっと叫んで死んだ」というブラックユーモアが流行ったりしました。この事件をきっかけに、再 び韓国の民主化運動が高まり始め、6月民主抗争へと発展します。
1987年 「民主化」を促した米国
6月民主抗争の結果、政権与党側の「6・29宣言」を引き出すことに成功し民主化が実現された
1987年、政権も翌年にソウルオリンピックを控え、強硬措置を執ることが困難になっていました。
アメリカ合衆国は、前年に発覚したイラン・コントラ事件の影響で、その海外戦略に対して批判が高まっていました。
全斗煥政権の後ろ盾となっていたアメリカ合衆国もレーガン大統領が親書を送って戒厳令宣布に反対すると共に民主化を促進するよう促したことも、大きな影響を与えたとされます。
現在のイラク問題の始まりは、隣国イランの石油権益をイラン市民が欧米から取り返そうとしたことに始まります。石油をめぐる欧米の覇権主義は、イランだけでなくイラクに混…
1986年に明るみになったイラン・コントラ事件は、当時米 国が表面上対立していたイランに対し、武器を売却、中米ニカラグアでのゲリラ活動へとその利益を循環させていたという大規模なスキャンダルでした。世界中 で展開していた米国主導の戦争の背景で、米国政府を含んだ利潤追求が行なわれたことが発覚し、米国の諸外国への強引な傀儡政権樹立が批判の対象となりつつ ありました。
米国が容認姿勢を示した「民主化」は親米保守勢力の温存を前提としたものだった。
1987年に高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある」と声明(6・29民主化宣言)。
利用されたオリンピック
ソウルオリンピックは、韓国の体制維持に利用されました。「民主化」という体裁を作り出しながら、従来の保守勢力を温存することに成功したのです。
政権与党側が反政府勢力側に譲歩する形で「6・29宣言」を発表したことで、1960年の4月革命の時とは異なり「新軍部」勢力が民主化後も政治勢力(政党)の一員として参加することが可能となりました。
形式上は、権威主義政権から民主主義体制へのスムーズな進展を可能としました。
盧泰愚政権の誕生
軍部の影響力を残しながら、「民主化」を行う
これが盧泰愚政権への移行で行われたことでした。「民主化」というのは、「選挙という手続きを行います」、ということでした。彼らは何年もかけて、選挙による保守層維持の仕組みを作ってきたのです。
1991年9月17日には北朝鮮と同時国連加盟した韓国
盧泰愚は、16年ぶりに行われた選挙で大統領に当選します。結局、独裁政権の全斗煥の後継者である盧泰愚が当選してしまったのです。
彼は、全斗煥政権時代の不正容疑を徹底追及する一方で、激しく対立していた金泳三・金鍾泌を与党に取り込むなど国政の安定を図りました。
しかしそもそも彼は、ハナ会の一員として、全斗煥のクーデターで軍部を指導し、光州虐殺の中心的人物でもありました。
1993-1998 金泳三大統領
少しずつ進んだ脱保守・革新の流れ
強硬な保守体制から逃れようとする動きが投票活動に反映されていきます。かつて、反体制運動の中心的人物でもあった金泳三が、盧泰愚政権にとりこまれる一方で、国民の支持を集めていきました。
軍事政権時代から脱却
1991年にソ連が崩壊し冷戦が終結すると、いわゆる軍事独裁の色を排除する動きが強まります。
1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生しました。
かつての野党側だった金泳三が、保守政権に取り込まれることで、保守層の影響力を残しつつ、市民の支持を維持することができます。
朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は息をひそめ、金泳三政権自身は文民政権と呼びます。金泳三は軍部政権の残滓を排除するため、軍内の派閥「ハナ会」を潰し、会員を退席させるなど、軍の改革を進めました。
北朝鮮との関係改善
カーター米大統領が訪朝、米国と北朝鮮の関係も改善が見られるようになる
ソウルオリンピック以降、少なくとも形式上は文民化したことで、南北の対話が可能になりました。軍事政権同士の状態の緊張状態がほぐれ、次の金大中の時代に最も関係が改善することになります。
北朝鮮の核問題に対しては米国が交渉にあたることになり、1993年6月から米朝交渉が開始されました。
この中では北朝鮮がすでに開発していた原子炉の平和利用への転換などが模索され、1994年6月にはカーター元大統領が訪朝して金日成と会談するなど、対話の機運は熟していました。
軍事独裁政権時代の政治勢力の排除
独裁政権時代の政治家は、とかげの尻尾のように切り捨てられていった。
全斗煥(一番右)盧泰愚(右から2番目)
死刑判決をうける(後に恩赦される)
独裁政権時代の政治家は、次々と切り捨てられることになりました。
金大中のアジア融和政策
民間ベースで日韓の交流が進んだ
日本に対する敵対感が薄れる若者が最も増えた時期でした。
日韓ワールドカップも共同開催するなど、金泳三と同様に民間交流で日韓関係を好転させます。
金大中大統領は北朝鮮との融和を進め、疲弊した北朝鮮もそれを受け入れる
金大中政権が開始した太陽政策はその規模と内容がこれまでの 北方政策に較べて大きく拡大しました。2000年には南北首脳会談が実現し、金剛山観光事業、開城工業団地事業、京義線と東海線の鉄道・道路連結事業とい う対北朝鮮三大経済協力事業が進められ、離散家族再会事業が継続して行われるなど、目に見える形で北朝鮮と韓国の距離が縮まったと韓国では広く認識されて います。
アメリカの影響力から離れて地域ベースの国家間交流が強まっていった。
アメリカの新しい対外政策
諸国の自由な連携を容認できない米国
冷戦構造は、反共産主義という名目を与え、米国は軍事独裁政権を支援するための口実を得ていました。韓国と同じように、米国主導で軍事独裁政権が維持されていた国々は朝鮮半島だけでなく、中南米や中東、アフリカに及んでいました。
冷戦の崩壊は、米国の対外戦略の転換を要求しました。そのうちの一つは、財政破綻に導き、経済的に従属させるという方法、もう一つは、テロ国家であると認定し、対テロという新しい軍事的動機付けを与えることでした。
新しい米国の覇権主義
それまで、東南アジア諸国は通過をドルに連動させるドルペッグ制をとっていました。公式にはドルペッグではなかったものの、米国経済の強い影響下にあった韓国も実質的にドルに連動した変動をしていました。
結果的に、これらの国々は、諸国は固定相場制の中で金利を高めに誘導して利ざやを求める外国資本の流入を促し、資本を蓄積する一方で、輸出需要で経済成長するという成長システムを採用していました。
ソ連が崩壊し、米国の中国との関係が強化されるようになると、ビル・クリントン政権は、「強いドル」を前面に押し出す政策を採りはじめます。
新興国における通貨不安はアジア地域に留まらず、1998年8月17日からのロシア通貨危機、1999年1月ブラジル通貨危機を招いた。
ドル高は、これらの国の通貨の上昇を招き、諸国の経済基盤を崩壊させるに至ります。
独自に連携しようとしたアジア諸国の自立の流れが押さえつけられる形になりました。
アメリカ合衆国は、19世紀末から現在まで、アメリカ合衆国の覇権確立や維持に都合の良い傀儡(操り人形)政権を、民主的政府か軍事政権かに関わらず作りだし、支援してき…
1998-2003 金大中大統領のIMF受け入れ
任期終盤の1997年、東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(アジア通貨危機)にて、韓国も起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。国際通貨基金(IMF)の援助を要請する事態となった
これにより IMF が韓国の経済に介入し、現代グループなどに対して財閥解体が行われました。
北朝鮮に対しては「太陽政策」と称される宥和・関与政策を志向しました。2000年に、北朝鮮の平壌で金正日総書記との南北首脳会談が実現。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞します。
危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めていきました。
古い財閥解体される一方、米国資本が韓国に深く入り込んだ。
日本が国債の金利を払うことができなくなるなどして破綻すると、日本は破綻し、財政の管理を国民ではなく債権者に委ねることになる。多くの場合、その相手となるのが国際通…
BRICsの台頭と資源国としての北朝鮮の再評価
9.11以降、アメリカは「対テロ戦争」を旗印に、アフガニスタン、中東、東アフリカなどで次々と武力行使に踏み切ります。
一方で、それまで抑制されていた、インドや中国、ロシア、ブラジルなどのその他の地域の途上国が急速な発展過程に入りました。
BRICsの急速な発展と、レアメタルの不足
折しも、ハイブリッド車への移行などのテクノロジーの転換もあり、急速にレアメタルの需要が高まりました。ここで、北朝鮮の地下資源に各国の目が集まります。
北朝鮮の資源争奪で出遅れた日米
北朝鮮は世界にまれにみるレアメタル、鉱物(主にウラン・金)の資源大国。世界の主要国はすでに北朝鮮との国交を正常化し、ビジネス展開を開始している。一方、政治的背景…
北朝鮮に対する各国の投資が目立ち始め、相対的に韓国の存在感が低下するようになっていきます。一方、米国が反発し始めます。
北朝鮮資源獲得競争に出遅れた米国が北朝鮮とぎりぎりの外交を展開する
ヨーロッパ諸国や韓国が北朝鮮への資源獲得に動き始める中、米国が出遅れる
アメリカ合衆国は、朝鮮戦争以降、北朝鮮と韓国の格差をいか にして拡大するか、という観点で韓国を支援してきました。しかし、朝鮮民族を統一したいという基本的な思想は、完全に破壊できるものではなかったのです。 民主化した体制の下、韓国政府と米国のホンネは対立することになります。
米国は、民族の一体を求める韓国政府を直接批判できる正当性を持っていませんでした。そこで、北朝鮮を挑発するという方法に転換します。
2002年、米国が北朝鮮を悪の枢軸と名指しする
長期に亘るアメリカ合衆国とソビエト連邦の冷戦が終結すると、それまで世界各地で抑制されていた紛争が活性化しました。一方で、米国の覇権主義が改めて顕在化してきた時代でした。
北朝鮮は、2003年1月10日、アメリカ合衆国の軍事的脅威を理由に挙げ、核拡散防止条約第十条を根拠にNPTからの脱退を通告します。
西側のメディアは、「北朝鮮の脅威」を宣伝し、北朝鮮を孤立させていきました。
韓国と北朝鮮の融和を嫌うかのように、米国が朝鮮半島に干渉し続ける
北朝鮮は、2005年2月10日、公式に核兵器の保有宣言を行い、2006年10月9日に地下核実験を行った事から当条約上で定義された「核兵器国」以外の核保有国となりました。
金大中の進めた北朝鮮との融和政策は、米国の思惑と対立、北朝鮮は核拡散防止条約から脱退、核開発の再開を宣言するとともに、ミサイル実験を開始しました。
武力行使をちらつかせる米国に対して、北朝鮮もギリギリの外交で臨む。いつ政権が切り崩されてもおかしくない状況で、北朝鮮は米国との駆け引きを行い、結果的に国土・権力の保全に成功する。
冷戦の期間、不安定な情勢の中で体制を守り続けた朝鮮民主主義人民共和国指導部は、同様に悪の枢軸と名指しされた多くの国が取り崩されていく間、いつ軍事侵攻を受けてもおかしくない状況の中で、米国とのぎりぎりの駆け引きを維持し続けることに成功したのです。
太陽政策を引き継いだ盧武鉉大統領
改革の流れに、日米の外圧がかけられた。
2003年-2008年
金大中の太陽政策を引き継いだ盧武鉉大統領は、北朝鮮との融和をさらに進めようとしました。このころになると、韓国と米国との距離が生まれ始めます。
その政権末期はドロドロし、妖しさが際立ちました。廬武鉉大統領は、最終的に不審死を遂げることになります。
核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある
出典廬武鉉大統領
こう述べ、廬武鉉大統領は、米国や日本による北朝鮮脅威説に 強く反発。北朝鮮の主張に理解を示しました。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といっ た経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強めるアメリカと意見の違いを見せたのです。
敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い
出典盧武鉉大統領
盧武鉉大統領の発言を日本や米国のメディアは、「国際社会との差異」として強調し、廬武鉉政権を非難しました。しかし、南北朝鮮の融和を目指していた立場の、北朝鮮の孤立を狙う日米と声を揃えることはありえなかったのです。
朝鮮民族の融和と統合を求め、北朝鮮政策で日米と意見が一致しなくなっていった盧武鉉政権。
内政的には、保守層の最有力者として、かつての独裁者朴正煕の娘である朴槿恵の勢力が拡大し始めます。
韓国大統領選にて盧武鉉の政策とは逆に北朝鮮に厳しい態度を示していた朴槿恵が有力な大統領候補となって盧武鉉の対抗馬となった。
盧武鉉は朴槿恵の父親である朴正煕元韓国大統領が日韓併合の時代に満州国の将校を務めていたことに焦点を当てて、この法によって朴槿恵を「親日派の娘」として攻撃する意図があると韓国の評論家や軍人からの批判の声も出ていました。
2005年以降の対日政策
盧武鉉政権は、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵を大きく切り直す。
長年行われなかった総理大臣による靖国参拝の封印を解き、小泉首相が靖国参拝を続け、国連の常任理事国入りを目指していく一方、韓国では反日デモが起こる等国内での反日感情が増幅していきました。
韓国でも「親日派問題」が再び取り上げられるようになっていきます。
盧武鉉政権では日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行された。
これらの法律は、現実的には日本への外交攻撃というより、韓国国内の親日・知日派勢力への圧力という効力を持つものでした。朴正煕以降の軍事政権の流れを汲む政治家は、日本統治時代の影響を受けており、彼らとその後継者への政治的な圧力を与えていました。
盧武鉉大統領の失脚と死
結局、盧武鉉は不正献金疑惑をかけられ、退任する
その後、謎の自殺という妖しい幕引きとなった
自宅の裏山の岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして3時間後に死去した盧武鉉。
そもそも朝鮮人は一民族であり南北の融和を目指したいという思いは常に存在しました。軍政からの遅い解放は、金大中政権の時代に開花し、廬武鉉の時代には成熟するかにみえました。
軍事政権が革命で倒れてはクーデターで復活するというサイクルは終わり、民主主義の名のもとに独立するというささやかな期待もありました。
しかし、ここでも怪しく潰されてしまったのです。そして韓国は再び「強い保守政権」の時代へと逆行します。
民主化から始まった脱保守体制の流れが停止することになった。
国連事務総長
潘基文が国際連合事務総長となった
潘はアメリカ合衆国と縁が深く、アメリカ政府との関係の強い人物でした。
10月3日、潘の当選が確実となった予備投票の結果を受けて、アメリカの国連大使ジョン・ボルトンは「米国はこの結果を歓迎する」と述べています。
米国政府の支持とは裏腹に、国際的な評価は高くはありませんでした。盧武鉉の自殺の後、米国の影響下に置かれる韓国という構図が再構築されていきました。
米韓自由貿易協定
冷戦解消後、諸国は独自の道を歩み始めようとしていました。
その中でもとくに顕著に経済が発展した地域が中国でした。米韓FTAは、経済的独占を崩しつつあった米国にとって重要な新たな枠組みとなるとともに、環太平洋諸国に対して自由貿易協定を要求するための布石となっていきます。
親米保守体制となった李明博政権は、農家などが反対する中、極めて短期間で米国とのFTAを締結してしまいます。
旧体制への回帰
2008年2月25日 – 2013年2月24日、大統領選挙では、再び保守政党への劇的な巻き戻しが起こります。朴正煕系への復古が始まったのです。
しかし、イミョンバク大統領は前大統領の自殺による政治的波紋と、北朝鮮による軍事的挑発の双方に同時に受け止める役回りとなりました。
李明博政権においては、旧体制への回帰はなかなか思うようにはいきませんでした。
盧武鉉のスキャンダルによる失脚は、保守勢力の一大キャンペーンとなっていきました。結果的に李明博大統領の就任直後は異常に高い支持率を記録しました。
しかし、廬武鉉大統領の自殺をうけて今度は国民の批判が急速に高まり、異常な支持率低下を体験することになります。
前大統領のスキャンダルによって演出された高支持率。国民が支持していたのは政策ではなかった。
しかし、すでに保守政権は成立していたのです。なんだかんだいっても、資本やマスコミの裏づけのある保守政権は、強い立場にあります。次の選挙では、ついに朴 槿惠に大統領の座にシフトすることになります。李明博は変化の衝撃を受け止めるための政権となったのです。
前政権までの太陽政策とはうってかわって、親米反北政権となった李明博大統領政権。
「南北首脳会談にいつでも応じる」
「支援の透明性を重視」
と口先で述べる一方、北朝鮮へ落としどころを与えずに、複雑に絡み合った朝鮮問題を解きほぐす努力を停滞させるというのが、李明博政権のとった態度でした。
北朝鮮は、決して、李明博政権を好意的には受け止めず、彼をネズミと呼び、非難しました。
わたし自身は新しい成熟した韓日関係のために、『謝罪しろ』『反省しろ』とは言いたくない
日本は形式的であるにせよ、謝罪や反省はすでに行っている
(韓国側が)要求しなくても、日本が(謝罪と反省を)言うくらいの成熟した外交をするだろう
李明博大統領の「親日的」発言が、当時まだ与党だった統合民主党や、左派政党の民主労働党などから批判されました。
しかし、日本のメディアは、韓国中枢の高飛車な態度としてこれらの発言を引用します。日韓関係の冷却化が進みました。
東日本大震災
このころ、日本でも旧体制への巻き戻しが起こる
韓国に数年遅れて、日本でも旧体制への回帰が行われました。民主党政権が崩壊し、自民党体制が復活します。
東日本大震災を境に、急速に日本で反政府キャンペーンが展開されました。地震を背景として、ナショナリズムが台頭します。
「復興」が一巡すると、結局納税者が負担して、企業が利益を確保することになります。政治勢力としてみると、相対的に大企業などを支持母体とする保守勢力が伸び、労働者や…
歴史認識の相違と言える範囲を超えて、日韓両国の要人の不規則発言が増え始める
対立を望むかのような不規則発言が、日韓双方の保守層から発 信されるようになり、メディアもそれをこぞって報じるという構造が作られました。しかし、日韓の市民の対立という構造は、ナショナリズムを背景としている 双方の保守勢力にとって、自らを正当化するために都合のよいものでもありました。
日本でも、TPPへの加盟議論が行なわれるようになり、国政選挙では重要なテーマとなっていきました。
日本が徴兵制を復活させるかもしれない、とまことしやかにささやかれています。しかし、日本が徴兵制を復活させようとするならば、その本当の理由はなんでしょうか?
北朝鮮が人口衛星の打ち上げに成功する
2012年就任直後の4月衛星の軌道投入を試みるも失敗、だが同年12月には光明星3号2号機で軌道投入に成功します。
宥和政策から後退し、米国に寄り添う韓国に対して、明確なメッセージを発することになりました。
太陽同期軌道への衛星投入に初めて成功。
北朝鮮が人口衛星を太陽同期軌道へ投入することに成功、現在でも周回しています。日本のメディアはこれを「事実上のミサイル」などと報じましたが、北朝鮮が軌道投入に成功したことは間違いなく、また今後技術獲得が進むことは間違いない水準に達しました。
衛星打ち上げ能力のない韓国との差が際立ちました。
なんだかんだいわれながらも強気路線は変更ない北朝鮮。
欧米側の報道と北朝鮮側の報道の双方に政治的意図が強く現れているため、実態としては不明な部分が多い。
ギリギリの駆け引きをしながらも食糧援助を受けるなど、外交のバランス感覚のキレのよさは光っていました。
朴槿恵(パククネ)大統領の就任
歴史を辿れば、反共・親米を基本とする軍事政権の支持母体が成長し、姿を変えて現代に繋がっています。
韓国史上はじめて二代で大統領になった
朴 正煕は、独裁者としての批判に加えて朴正煕を日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際2005年8月29日に韓国の市民団体民族問 題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第1回リストに記載されたこともあります。
父である朴正煕が親日認定されたことがある
朴正煕を批判する立場から、日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見があります。実際に、盧武鉉政権時に可決された「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」は朴槿恵のバックグラウンドを狙い撃ちしていたとも言われます。
親日認定を逃れなければならないという事情は、保守派の政治家個々人にとっては弱さであり、保守派のバックグラウンドにある資本にとっては都合よさでもあります。
神社参拝などの軽微な刺激に対してさえ、強く反発せざるを得ない構造は、日韓双方の保守勢力を支える財閥や大企業にとって、政治指導部をコントロールしやすいものにしています。
在日韓国人に波及する韓国ナショナリズム
もともと、知日派を主体としていた在日韓国人
もともと、日本に帰化した韓国人の多くは、米国軍政・李承晩 政権時代において、迫害を逃れてきた人々でした。朝鮮総督府系、いわば日本政府に協力的で、韓国政府と敵対的だった人々の流れを汲んでいました。彼らは、 韓国に独裁政権が維持されていた期間、日本社会の中に適応し、時として影響力を行使していたのです。彼らは、韓国国内の反日教育からは隔離された韓国人コ ミュニティとして戦後を生きていたはずでした。
メディア戦争に負けた日本
日韓双方の保守が復古する流れの中で、知日派として逃れてきた人々の二世・三世が、日本の保守勢力の作り出す嫌韓のムードに押され、一方で韓国のメディアが発する反日のムードの中に取り込まれる形で、2000年以降急速に韓国ナショナリズムに取り込まれていきました。
問題を単純化することで失ったものは大きい。
よく似た戦後を持つ日韓
わずか二世代で、極めて強大になった保守体制
退役軍人や軍部、大企業をバックとする強い保守勢力の一旦を担うのは、安倍首相もパククネ大統領と同じです。
朝鮮戦争とベトナム戦争を経て事実上、米国の代理人として成長し、保守勢力を形成していきました。かつてと異なるのは、日本の大企業と、韓国の大企業・財閥が、今や競合しているところにあります。そして、それぞれの保守勢力が対峙している構図となっています。
戦後人工的に作られた国民構造が、未だに保守勢力によって利用され続けている。
ヤルタ会談でルーズベルトは、長い信託統治が必要だと言い、ソ連のスターリンは短ければ短いほど良いと言った
結局、ルーズベルトの思惑通り、長い傀儡政権によって、西側資本が政治を感情や教育をコントロールする基盤が形成されていったのかもしれません。私たちは、長い期間、西側資本の強い圧力の下で二世代以上の時間を紡いできたのです。
政治家が政治家である限り、自分たちの勢力を形成した歴史を正面から語ることはありません。
国家間の対立という構図によって、納税者と体制という構図を隠してしまおうとするとき、長い歴史と複雑さは都合のよい道具になります。
国家間の対立のずっと下で押しつぶされているのは、国家のしがらみとは本来なら無関係でもよい、多くの人々かもしれません。
関連するまとめ
現在の日本の枠組みを決めている、日米安保体制・日米地位協定・原子力発電とはどのように日本に導入されたのでしょうか。
パレスチナ人問題・クルド人問題・ユダヤ人問題が中東においてどのように拡大していったのかをまとめました。
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