南京事件の真相は……

南京事件とは何だったのか?

歴史を紐解いていく…

o0400025513456617018

1912年 中華民国建国

 

蒋介石の国民党による政府
が存在していたが…
山西軍閥

広西軍閥
雲南軍閥
西北軍閥
共産党勢力
と各地を支配する勢力があり
シナ大陸は混沌状態だった…

o0800084013456618550

 

そんな中、

いち早く近代化を成し遂げ

世界有数の軍隊を持った国があった

大日本帝国である・・・

o0275018313456639902

大日本帝国は、軍閥に支配された
シナ大陸を救うため立ち上がった…


1932年 満州帝国建国

o0200013313456618908

大日本帝国は莫大なお金を投じて
未開の地にインフラ整備を行う

 

鉄道建設推進! 「特急あじあ号」 

最高速度130km/hとアジアナンバー1の速さだった!

o0800053413456618791
巨大なダムを建設! 当時、世界の中で最大級の発電量だった水豊ダム

o0300019513456618789
製鉄所も建設! 八幡製鉄所に続く第2位の生産力 昭和製鋼所
o0555037913456626169

 

銀行、郵便事業の推進! 満州中央銀行→140もの支店が作られ大銀行へ発展!

o0667027213456618909
人口は急激に増え
満洲帝国が建国された年
1932年10月1日→人口、2928万8千人

↓ 10年後には
1942年10月1日→人口、4424万2千人にまで増加!

 

しかし…

一つの事件をきっかけに

思わぬ方向へ進んでいく。

 

坂道を下るように…
1937年 7月7日 盧溝橋事件発生

「北平(北京)郊外で日支両軍衝突

不法射撃に我が軍反撃」

o0448036713456643355
日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊は

実弾を使わない夜間演習の最中
突然何者かに実弾射撃を受ける…

 

元支那駐屯歩兵第一連隊
第三大隊第二小隊第二分隊長 長澤連治氏
「日本軍からの発砲はあり得なかった」と証言

 

中国の軍閥による発砲への

日本軍の応戦から始まったシナ事変

 

その後、戦線は拡大し
北京一体、さらに天津、上海などに広がる

日本軍は平和維持のため戦い続け、

蒋介石の国民党政府の首府南京へ

o0360040513456650562

1937年12月1日、大日本帝国大本営は

南京に「安全区」を作るよう指令を出す。

直ちに民間人は「安全区」に集められる。

12月7日、日本軍は南京へ本格攻撃開始。

蒋介石は即座に南京から脱出。


12月9日、日本軍は南京城を包囲し、投降勧告をビラで通達。

12月13日、国民党からの応答はなく攻撃を続け、日本軍は南京へ入城。

12月17日、日本軍による入城式の様子
o0800056613456657804

 

さて

南京陥落後

何が起きたのか?

まずはこの写真をください。

南京陥落後

南京市民は歓喜の声を上げて

日本軍を歓迎したのです。

o0800051013456659601

喜んで食べ物を受け取る子供たちの様子

イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」
『南京市民に食糧等を配る日本兵たち。』

o0400032413456618548
朝日新聞 1937.12.18付

日本軍による南京占領5日目の朝日新聞
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も

手製の日の丸の腕章をして笑っている。

o0421030713456618549

国民を歓喜の渦へ

 

しかし

神は日本の味方をしなかった・・・

日本を奈落の底に突き落していく。

 

誰がこのことを想定したのでしょうか?

 

この時の南京の状況とは

180°異なる歴史が作られるということを…

 

驚くなかれ。

 

南京で30万人虐殺されたという捏造が作られるのです…

 

1947年 極東国際軍事裁判(東京裁判)
南京法廷にて裏付けのない証言がなされる…
『中華門外花神廟・宝塔橋・石観音・下関・草鞋峡等において

集団射殺された軍民 19万人余
零星屠殺、その死体が慈善団体によって埋葬されたもの 15万人余。
被害者総数は30万人以上に達する。

死体が大地をおおいつくし、悲惨きわまりないものであった。』

そのまま東京裁判の判決文となり
司令官だった谷寿夫中将は処刑

 

o0500038313456618790

実際に、人を殺す場面を見た証言者は
アメリカ人牧師のマギー氏の
1件のみ…

 

当時の人口統計によると…

 

南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、
警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、
「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表。


12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」だとしている。

さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、
国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表

民間人が大量に殺されたのであれば

人口が減っているはずが増えている…

証拠もない30万人虐殺という数字が独り歩きし

今も中国では、記念館に30万という数字が大きく書かれている
o0620041213456672122

 

蒋介石は後にこう述べている。

o0410030313456676155

毛沢東も、その生涯で一度も

南京で虐殺があったということを言及したことはない…
当時、南京の金陵大学教授だったルイス・C・スマイスの調査結果
「南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が

2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、

さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160人、

計15,760人が民間人の被害ということでした。

これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。

また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、

その中には、じつは日本軍による死者よりも、

中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

捏造された
負の歴史は
日本に対する攻撃材料として
今日まで語られ続けていく
そしてついに
4人は中国人、1人は韓国人という
10人のユネスコ選定委員により
南京事件の文書が、世界記憶遺産に登録

日本への断罪論が
苛烈する恐れのある
虐殺をしたという遺産だけが一人歩きしていく

 

証拠もないまま
ただ、日本を貶めるため

圧力をかける選定委員
中国共産党の裏からの支援

世界平和という美名の名の元に

我を屈服せんと企む。

日本国民よ今、戦うときなり

負の歴史が残されるなら
子孫に渡って
謝罪という宿命を背負うことになる

2015年10月10日
我々はこの日を忘れない…

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

お読みいただきありがとうございました。

拡散希望です。

こちらもまだ署名、集めています。

ご賛同いただける方
ご署名お願いいたします!

リンク先→ユネスコ「南京大虐殺文書」の世界遺産登録、取り消しを求めます。

当方、ブログランキングに参加させていただいております。

貴殿のご支援、よろしくお願い申し上げます。

 

…配信元を読む

0
国連は、なぜ現在進行形の人権侵… 明治天皇の玄孫、竹田恒泰氏  …

コメントはまだありません

No comments yet

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です