一休さんと応仁の乱

(1) 一休さんは室町時代の高僧 です。イメージがアニメの「一休さん」なので、肖像画を見た時、ふてぶてしい風貌や眼光鋭く反骨に満ちたその表情に驚いた記憶があります。一休さんを一言で表すと「風狂」。僧侶らしからぬ破天荒な生きざま。自由気ままに飄々と生きた人だったのでしょう。しかし、真面目な人でした。

(2) 真面目な人と言えば、宿題をちゃんとやって先生の言うことをきちんと守る生徒、上司の指示を素直に受け止めてきちんとこなす社会人・・・を想起しますが、仏教の「真面目な人」はそういう人ではありません。 どんな人が真面目な人なのでしょうか。死をしっかりと見つめる人です。世の中や自分の無常をしっかりと受け止めて生きる人が仏教では真面目な人と言われます。

(3) 一休さんの数々の言動に触れると、彼が生死の一大事を真面目に見つめていたことがうかがわれます。アニメでは、将軍義満や庄屋の無理難題に頓智で答える姿が描かれていますが、彼が頓智を駆使してでも、何としても解決したいと取り組んだのが生死の一大事だったのかもしれません。

(4) 修行を終えて得度した一休さんが詠んだ歌が、「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)に帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」 有漏路は煩悩だらけのこの世、無漏路は来世。人生はこの世から来世までのほんの一休み。雨が降ろうが風が吹こうが大したことはない。そんな意味なのでしょう。一休さんの名前はこの歌から来ているそうです。

“竹の寺”として知られる地蔵院は、秋には紅葉が美しく色づきます

(5) 以下、一休さんの言動の幾つかです。・おめでたい正月、杖の頭にどくろをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら、京の町を練り歩いた時の歌が、「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」・「家宝にしたいと思いますので、何かめでたい言葉を書いてくださいませんか」と頼む信者に対して、さらさらと書いた言葉が「親死 子死 孫死」。怒った信者がやぶり捨てようとすると、一休さんは、「それでは、お前のところでは 孫死 子死 親死の方がめでたいのか・・・」と静かに諭す。

少年期の一休さんは「神童」として知られ、テレビアニメのごとく利発な子どもであったそう。12歳の頃には詩文の才能を発揮し、仏教の経典『維摩経(ゆいまきょう)』を熱心に勉強したのだとか。その講義を受けたのが、宝幢寺(ほうどうじ)です。足利義満が嵯峨に造営したお寺で、当時はかなりの大きさを誇ったと伝わりますが、現在はその塔頭であった鹿王院(ろくおういん)だけが往時を留めています。

・他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と弟子達に1通の手紙を残す。数年後、今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れる。固唾を呑んで開封した彼らの目に映ったのは次の言葉・・・「大丈夫。心配するな。何とかなる」
・文明13年(1481年)、京都府京田辺市の薪地区でマラリアにより死去。享年88。臨終の言葉は「死にとうない、死にとうない」 ・・・・・・・

⭐ 以下、付録です。 足利義満は一休さんを邸に招き、困らせてやろうと魚を食事に出す。パクパク食べる一休さんを眺めながら、「僧が魚を食べていいのか」と問い質す。「喉はただの道です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」と返事をする。義満は刀を突き出して、「ならば、この刀も通して見よ」。「道には関所がございます。この口が関所です。怪しい奴め。通ることまかりならぬ」と答えて平然としている一休さんに、義満が更に言った言葉が「あの屏風の虎を捕らえてみよ」。

祇園にある建仁寺は、禅寺の中でも「学問面(づら)」と称されるほど詩文芸術に秀でた禅僧を輩出してきたお寺。この頃は禅僧による漢詩文「五山文学」の隆盛期で、一休さんも建仁寺で作詩を学ばれました。一休さんには漢詩集の『狂雲集』や『自戒集』などの著述がありますが、それらの素養を早くから身につけ開花させていたようです。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
現在特別展を開催中の大徳寺塔頭・真珠庵(しんじゅあん)は、一休さんを開山とするお寺。一休さんが亡くなった後、住まいとしていた小庵跡に開かれました。江戸時代に再建された後、400年ぶりに新調された襖絵の特別公開は2018年12月16日(日)までとなっているので、お見逃しなく!

一休さんは、臨済宗のお坊さん。この時代、臨済宗は幕府と密接に結びつき、天龍寺相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺(現在は東福寺の塔頭、非公開)は「五山教団」を形成して力をつけていました。それに対して権力から遠ざかり坐禅修行に励んだのが、妙心寺大徳寺の派。“本来の禅の在り方”を求めた一休さんは、近江・堅田(かただ)にあった大徳寺派の高僧・華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となります。

修行を重ね禅の道を悟った一休さんは、30代頃に師のもとを離れ、小庵を転々としながら各地を訪ね歩きます。

応仁元年(1467)、74歳の時に「応仁の乱」がはじまり、大徳寺が炎上。その再建のため、文明6年(1474)に大徳寺第48世の住持として一休さんに白羽の矢が立てられたのは、81歳のときのことでした。

各地を転々とされた一休さんが晩年の拠点としたのが、京田辺市・薪(たきぎ)にある一休寺。元は妙勝寺(みょうしょうじ)というお寺で、鎌倉時代の臨済僧・南浦紹明(なんぽ じょうみょう)が中国・宋から帰ってきた後に建てた禅の道場でした。その後、戦禍により荒れ果てていた寺を一休さんが再建。師の恩に報いるという意味で「酬恩庵」と名付け、60歳過ぎから88歳までを過ごしました。

応仁の乱の戦火を逃れるとともに、薪村ののどかな景色や人々との触れ合いを楽しんだという一休さん。70歳を過ぎてからの愛人・森女(しんにょ)をそばに置き、大徳寺へと通う生活を続けながら、文明13年(1481)11月21日、88歳でこの世を去ります。遺骨はこの地に葬られ、庵は一休さんにちなんで「一休寺」と呼ばれるようになりました。

一休寺、2018年秋のスペシャル企画!!

左:一休号、右:一休禅師頂相

一休寺では、2018年11月10日(土)から、特別展「祖師と肖像」が開催されます。臨済禅の祖である南宋の僧・虚堂智愚(きどう ちぐ)から一休宗純、そして一休の弟子・墨斎までの、大徳寺の法系の頂相(ちんそう、禅僧の肖像画)を展示するという、この展覧会。あわせてテレビアニメ『オトナの一休さん』の作画担当イラストレーター、伊野孝行さんによるNEO頂相(!?)も発表されます。また、一休さんの漢詩集『狂雲集』や、一休さんの五条袈裟なども展示され、まさに「一休さん尽くし」の展覧会です!

「そう京」イベントでは、それにあわせてスペシャルトークショーを実施。白隠(はくいん)学の第一人者・芳澤勝弘(よしざわ かつひろ)先生、伊野孝行さん、人形作家の北野深雪さん、そして一休寺副住職の田邊宗弘さんの4人が一休さんを語り尽くします! 一休さんをもっと知りたいという方は、ぜひ参加してみてくださいね♪

\一休寺で実施する「そう京」イベントの詳細をご紹介しています/
⇒【イベント通信】一休さんってどんな人? 一休寺でトークショー開催のお知らせ
■特別展「祖師と肖像」
【日程】2018年11月10日(土)~12月2日(日)
    9:00~17:00、宝物殿9:30~16:30
【場所】酬恩庵 一休寺 宝物殿 詳細情報はこちら
【入場料】無料、要境内拝観料500円
【問合せ】0774-62-0193
【公式ホームページ】http://www.ikkyuji.org/

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