葛根廟事件を忘れるな!

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毎年のことながら、終戦記念日は反日マスコミによる、日本は愚かな戦争をしたという、国民総懺悔の報道ばかり。もう本当に、うんざりだ。

加えて、どのテレビも、戦前、戦中、戦争末期に、日本人が被った数多くの極悪非道の虐殺事件は、報道されることはない。

例えば、終戦のどさくさに紛れ、ソ連が行った極悪非道の日本人婦女子の大虐殺、葛根廟事件(かっこんびょうじけん)。

戦後の学校教育で、日本軍が行ってもいない捏造された歴史(南京大虐殺や従軍慰安婦)などは、教科書に書いてあるものの、一方、日本人が被った大虐殺事件は、一切教科書には書かれていない。

今回は、ブログ『さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」』に、簡潔に纏められているので、そのまま引用して紹介したい。

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【葛根廟事件】

真実を反日マスコミにすり替えられてはいけない。
葛根廟事件を「友好」「戦争放棄」に利用するな。

葛根廟事件

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東京目黒・五百羅漢寺にある「葛根廟事件」の絵

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昭和20年8月14日、葛根廟事件。この悲劇は風化して忘れ去られようとしています。

従軍慰安婦や南京大虐殺や人体実験731部隊や沖縄集団自決という捏造は教えても、日本人が被った真実の被害は全く教えない。

昭和20年8月9日、朝のラジオで日ソ不可侵条約締結国のソ連が攻撃してきたとの放送がありました。そしてその翌10日、満州興安総省興安街に赤い星を付けたソ連軍機が空爆してきました。

その翌11日も朝から空襲があり、ついには通信も途絶えてしまい、頼みの関東軍も来ずに混乱状態の中、日本人達は自分の手でこの街から脱出することにしました。

この街に居た日本人は約3000人で、ほとんど婦女子でした。これを二手に分けて逃げることにしました。輸送手段の馬車が見つかり片方は逃げはじめたが、もう片方は馬車の手配がつかず、やっと出発で来たのが翌日でした。この1500人を7つに分け、7つの各班には男子が銃や手榴弾を持って配置されました。

13日は真夏の行進。そして運命の14日の朝です。

ソ連の飛行機が1機やって来ましたがそのまま旋回して飛び去って行きました。偵察飛行でした。婦女子の集団が遅く歩く中、1台だけあった荷車が窪みにはまって動かなくなりました。隊列が止まり男子が銃を持ってその様子を見に後尾に向かったその時、列の後ろから蜘蛛の子を散らすように乱れ始めました。

「敵襲だ!」「戦車がやって来たぞ!」と指さす丘の上に現れたのは巨大なソ連の戦車でした。

草原の中を逃げようもなく、高粱やトウモロコシ畑に駆け込んだ者もいましたが、ソ連兵の殺戮は容赦なく始まりました。その状況は残忍、非道、暴虐・・・。あらゆる形容詞を使っても言い表せないものでした。虐殺とはこのようなことをいうのです。

しかもソ連兵は戦車からの射撃と蹂躙に飽き足らず、戦車を降りて生き残る日本人たちに徹底して銃弾を浴びせてきたのです。

草原の斜面には深さ2メートルほどの自然の壕がありました。生き残った日本人たちはその壕にかなりの数が身動き出来ずにじっと隠れていました。そこへソ連兵は自動小銃を乱射しながら入って来て、悲鳴の中、容赦なく銃弾を浴びせて殺戮しました。

運よくそこを逃れて生き残った日本人たちは、無数の死体の間をさ迷った後、彼方に最初の目的地であった葛根廟を見ました。

しかし、助かる見込みがないとあきらめ、集まった日本人たちは全員自決することにしました。その時、自ら死を選んだ婦女子は約80名でした。

ソ連兵の犠牲となった日本人は約千数百名と言われていますが、正確な犠牲者は把握出来ていないのです。

惨劇の後の逃避行も筆舌に尽くせぬ苦難の連続でした。空家に隠れた日本女性達がソ連兵に見つかり一晩輪姦され、その翌日に家ごと焼き殺されたことなど、・・・。かろうじて生き延びて日本に帰国出来たのは百数十人でした。

千数百名の婦女子たちはどういう思いで亡くなっていったのか、考えただけで怒りがこみ上げてきます。

娘1人を失ったが5人で帰国出来たのは大島肇氏の一家だけでした。大島氏はこの事件の犠牲者に対し慰霊、援護を熱心に続けました。

毎年8月14日には葛根廟関係者による慰霊法要が東京目黒の五百羅漢寺で行われています。今年も行われます。

さて、さらに問題はここからです。この事件を多くの日本人が知らない(教えられないので知らないのが当たり前)のをいいことに、今年7月に東京新聞が「終戦前日、国は見捨てた 旧満州・葛根廟事件 生存者が証言集」というタイトルで下記のような記事を報じました。

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大島満吉(まんきち)氏

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当時九歳で助かった大島満吉(まんきち)さん(78)は思いを語り、事件の舞台だった中国と日本の最近の関係悪化を憂う。証言集には、現地民に救われた残留孤児らの体験も含まれている。かくまってくれた養父母への感謝や日中友好への願いをつづっている。

事件から六十九年。日本では嫌中感情が広がりつつある。大島さんは「生存者は皆どこかで中国人に助けられている。大陸の広い心を持った中国を嫌いにはなれない」と話し「武器をかざせば敵ができ、抑止力にはならない。憲法の戦争放棄を実践してきた戦後をさらに延ばし、外交や交流に力を注いでほしい」と願う。(2014.7.19 東京新聞抜粋)

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