史上ただひとり 米国本土を爆撃した男伝説

たけし・さんま世界超偉人伝説より。
史上ただひとり 米国本土を爆撃した男、藤田信雄さんのお話です。
戦後日米友好の架け橋となった伝説の男の感動の物語。

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先日、日本のテレビを見ていて驚かされたのが、最近の日本人の若者の過半数が、日本とアメリカが戦争をしたことさえ知らないという事実です。それは日本の大学教授が学生を相手に話していた時に知ったそうで、中には「日本はアメリカに勝ったのですか?」と、質問する学生までいたのだとか。

既に終戦から70年が経過しているとは言え、過去の反省と教訓を未来に活かせることを考えれば、歴史に対する無知は大きな損失だと言えるでしょう。その点、日米の戦争の歴史を背負い、戦後、個人として日本とアメリカの友好親善に努めた元軍人、故藤田信雄の生涯について少しでも多くの方に知ってほしいと願わずにはいられません。

NYタイムズが報じた藤田信雄の死

藤田は1997年、この世を去りました。そして彼の死はニューヨークタイムズ紙に「米国本土に爆弾を落とした唯一の敵、藤田信雄、85歳で死す」と題して報じられたのです。むしろ、日本よりもアメリカで彼の功績は広く称えられました。

彼の功績とは? そしてなぜ、アメリカを攻撃した日本兵が、非難されるのではなく称えられるまでになったのでしょうか?

それを説明する前に、話を1942年に移しましょう。パールハーバーでの攻撃以降、日本とアメリカは太平洋戦争に突入しましたが、当時、ミッドウェイ海戦での敗退により、日本は苦境に立たされていました。

そこで起死回生の策として、「アメリカ本土を爆撃」する計画が立てられ、実行するパイロットとして藤田信雄に白羽の矢が立ったのです。

戦時中の藤田信雄

戦時中の藤田信雄

藤田海軍中尉は、太平洋上の潜水艦から零式小型水偵を操縦して飛び立ち、オレゴンに向けて飛行、レッドウッドという樹木が茂るエミリー山に焼夷弾を投下しました。1942年9月9日早朝のことでした。

これが最初にして最後の日本軍のアメリカ本土への爆撃となったのです。民間人を巻き込む市街地爆撃ではなく、原生林を狙ったのはアメリカ人が恐れる山火事を引き起こすことが目的でした。

「切腹」覚悟で投下地訪問 盛大な歓迎に恩返し誓う

1945年、終戦。その後、藤田元中尉は波乱の人生を送りました。家族を養うため、金物の行商から始めた商売を、藤田金属という企業にまで育て上げたものの、社長の座を息子に譲った途端に会社は倒産。

60代後半にして、藤田は海軍時代の飛行機乗りの教え子を頼って運転手として再就職、その後、工場長、さらに取締役と昇進しながら82歳まで現役で働き続けました。彼がその年齢まで働き続けた理由は、あのオレゴン爆撃にあったのです。

1962年、藤田金属の経営者時代に、時の官房長官、大平正芳と藤田は密かに会談を持ちました。大平によれば、オレゴン州ブルッキングスという、藤田が爆弾を投下した場所近くにある市が、彼と家族を5月のアゼリア祭りに合わせて招待したいと言ってきたそうなのです。

にわかには信じられなかった藤田ですが、市長の署名付きで「日米親善のため」とある招待状を見て、その年の5月、爆撃以来2度目のアメリカを訪れました。

オレゴン州ブルッキング市

オレゴン州ブルッキング市

しかし、現地でアメリカ人たちに非難された時のことも考えて、藤田は日本刀を持参しました。彼は、責任を取るための「切腹」まで覚悟していたのです。

ところがブルッキングスに到着すると、アゼリア祭りの主賓として盛大に歓迎されただけでなく、「たった1人でアメリカを相手に爆撃を成功させた勇敢な元兵士」として、彼は市民から賞賛を浴びることになります。藤田にとっては予想外のことでした。

歓迎パーティーで彼は持参した日本刀を「これは私の魂です。貴市に寄贈致します」と差し出しました。そしてそのパーティーでは、あるアメリカ人男性が藤田に歩み寄りました。彼はフィリピンで日本軍の捕虜となり、北九州で強制労働を課せられた元アメリカ軍兵士でした。

本来であれば恨みに思っても当然ですが、ローガン・ケイ元陸軍少尉は「過去を忘れてお互いの祖国の繁栄と、引いては人類の幸福という大きな目的に向けて努力しましょう」と語りかけ、二人は堅い握手を交わしたのでした。

ブルッキング市の市長に日本刀を手渡す藤田

ブルッキング市の市長に日本刀を手渡す藤田

こうして、藤田はブルッキングスの人々の歓迎に報いるために、一度ビジネスに失敗しても地道に働いて貯金を続け、筑波万博が開催された1985年、同市から高校生3人と、1962年訪問時に知り合った(当時は小さな男の子だった)マイク・ミードを1週間の日本の旅に招待しました。

一行の歓迎パーティーでは、藤田に特別なプレゼントが贈呈されました。それは、

「貴殿の惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を称え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります」

との当時のレーガン大統領からの感謝状と国旗だったのです。

藤田はその後も前述のように82歳まで元気で働き続けて、ブルッキングスの地を再訪しました。その際、日本に招待した女子高校生が大学で日本語を専攻していることを知り、藤田は大きな喜びを感じました。そして彼は自分が焼夷弾を投下した山にレッドウッドの苗木を植樹しました。

1995年の訪米の際に市に贈呈した家宝だった日本刀を眺める藤田

1995年の訪米の際に市に贈呈した家宝だった日本刀を眺める藤田

今でもブルッキングスでは、彼がアゼリア祭りに訪れた5月25日を「藤田信雄デー」として祝っています。勇敢な兵士だった藤田ですが、アメリカ人の広い心に触れた時、彼は二度と戦争が起こらないことを、他の誰よりも強く願ったに違いありません。

彼の熱い思いに触れるためにも、オレゴンのレッドウッドの大自然や、さらに潜水艦に搭載した旧日本軍の水上戦闘機「晴嵐」が展示されているワシントン、ダレス空港のスミソニアン博物館を訪れてはみてはいかがでしょうか。

スミソニアン国立宇宙博物館別館にある水上攻撃機「晴嵐」

スミソニアン国立宇宙博物館別館にある水上攻撃機「晴嵐」

(参考文献:アメリカ本土を爆撃した男 倉田耕一著)

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