インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力のキリがない歴史

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マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)

「マニフェスト・デスティニー」、「明白なる使命」や「明白なる運命」などと訳されるこの言葉は、アメリカ合衆国のインディアンに対する民族浄化と黒人の奴隷使役によって進められた白人種の西部開拓を正当化する標語となりました。

19世紀後半、西部開拓とインディアン戦争を終えたアメリカ合衆国は、域外に生存権を拡大しようとし始めた。

インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力が一方的に独立を宣言したのは、1776年のことでした。それから100年後、インディアンの土地を駆逐したアメリカ合衆国は、大陸の外へと影響力を行使しはじめます。

アメリカ合衆国は、19世紀末から現在まで、アメリカ合衆国の覇権確立や維持に都合の良い傀儡政権を、民主的政府か軍事政権かに関わらず作りだし、支援してきました。ついに民衆による革命で親米政権が打倒され、その国の国民自身による政府が樹立された場合にも、直接的な軍事介入、または当該国の協力者を利用したクーデター・内戦を発生させ、政権を打倒し、再び傀儡政権を樹立するという手法を繰り返してきました。

1872年に描かれた「アメリカの進歩」。女神の右手には書物と電信線が抱えられており、背後には1869年に開通した大陸横断鉄道も見えます。

アメリカ合衆国は、西部を「文明化」の名の下に征服しました。この征服は、1900年代で終わったわけではありません、実はその後も現代へと途切れることなくつながっています。

19世紀後半、アメリカの西部開拓は終わり、西海岸までの支配を獲得してしまった。

アメリカ西部への拡張とインディアンとの大規模交戦の終了はアメリカ陸軍の任務を減少させ、軍の指導部は新しい任務を望みました。

それまで、大陸開拓で主導的な立場にあったアメリカ陸軍は、その指導的地位を維持するために、海外への軍事行動を求めはじめることになります。

ハワイのアメリカ合衆国への併合

アメリカは、西部開拓を完了すると、黒人奴隷を使役し、インディアンを侵略することを正当化したマニフェストデスティニーの考え方を、カリブ海や中南米、太平洋諸国に拡張した。

ハワイは、カメハメハ3世の治世の1840年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整っていました。

各国は相次いでハワイ王国を承認し、名実ともに独立国家として認められるようになっていました。

しかし、ハワイの土地は、アメリカ合衆国による乗っ取りの対象となってしまいました。このときの手法は、その後のアメリカの対外侵略の典型的な手法の一つになった重要なものでした。

近代国家への道を歩んでいたハワイに牙をむいたアメリカ合衆国

カラカウア王は、国王といっても、選挙によって選ばれ、自ら足を運ぶ行動的な政治家でした。19世紀の終わり、アメリカ合衆国の侵略に遭うまで、ハワイには主権のある近代国家が存在していたのです。

ハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い、1874年11月には自らワシントンに出向きアメリカ合衆国のグラント大統領とも会いました。日本を訪問した世界最初の国家元首カラカウア王は、明治天皇と会見したハワイ国王でした。

アメリカ合衆国企業のプランテーションを受け入れていたハワイ王国

アメリカ合衆国企業がハワイ王国に進出すると、米国系入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめました。

アメリカ人企業を中心に「親米的」な政治を求める声が強くなっていくと、その動きはアメリカ本土の資本を巻き込み拡大していきます。

ある日、暴力により脅され、国王は政治を明け渡すことになる。

1887年、アメリカ系の経済人・政治家・サトウキビ農場主らが結成した政治組織「ハワイ連盟」を名乗る武装勢力の蜂起が発生します。

米国系白人市民たちからなる武装集団「ホノルル・ライフル連隊」と共謀し、カラカウア王の退位を迫ったハワイ連盟は、カラカウア王に退位の代わりに内務大臣のアメリカ人ロリン・A・サーストンが起草した新憲法を強硬に受け入れさせたのです。

この修正憲法には「国王は議会の承認無しに政治に関与できない」「ハワイ人・アジア人には選挙権を与えない」という条項が存在し、当時人口の1/3にすぎなかった白人に圧倒的地位が与えられることになります。

ハワイの王政が廃止され、「民主主義」が誕生した出来事でした。

強引な改憲、そしてハワイ共和国へ

アメリカ合衆国は女王を幽閉し、住民に危害を加えると脅迫した

1893年1月16日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため、国家転覆を計画しました。

アメリカ海軍艦USSボストンが、サンフォード・ドールらを保護する名目でホノルルに侵入、リリウオカラニ女王を幽閉しました。

多くの先住ハワイ人が虐殺され、リリウオカラニ女王は捕らえられた約200人のハワイ人の命と引き換えに王位請求を断念、ハワイ王国は崩壊する。

女王は捕らえられ、拘束したハワイ人の命と天秤にかけて王位を放棄するよう要求されたリリウオカラニ女王は、市民の命を優先し、退位します。

リリウオカラニ Liliuokalani 1838~1917 ハワイのカメハメハ朝最後の女王(在位1891~93)。白人を排除する政権づくりをはかり、王権の復活をねらったが、1893年親米系市民のクーデタで、退位に追い込まれた。ハワイ民謡「アロハオエ」の作詞・作曲者でもある。

1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政廃止を宣言。

こうして1894年、ドールは一方的にハワイ共和国の成立を宣言、同国の大統領となりました。

1895年1月に王党派による最後の大規模な抵抗運動が発生しましたが、武力によって鎮圧されました。

1月16日にはリリウオカラニも『私邸から「大量の武器が発見された」』という口実で逮捕され、廃位されました。「武器発見」を名目としたキャンペーンは、現在まで続く侵略方法の一つとなりました。

1898年、ハワイは「憲法に基づいた民主的な議会の決定によって」アメリカ合衆国に併合されることになった。

武力により奪い取り、白人に圧倒的に有利な憲法を制定させ、その憲法の名の下に、アメリカ合衆国に併合されました。

ハワイ王国と国交のあった大日本帝国は、在留邦人保護の名目で巡洋艦浪速(艦長東郷平八郎)を送りました。

日本のハワイ併合への干渉は、アメリカにパナマ運河建設を強く意識させる結果となりました。セオドア・ルーズベルト大統領は後に、日本の干渉のせいで米国がただちにハワイを併合することができなくなったことについて言及しています。

サンフォード・ドールの従弟であるジェームズ・ドールはオアフ島の中央部の平野に農園を開き、1901年にハワイアン・パイナップル・カンパニーを創業しました。

現在へと続くDoleブランドのはじまりとなりました。

やっぱDoleのパイナップルジュース うますぎや安いしね( ¯﹀¯ )どや パイナップル大好き pic.twitter.com/VC52oEx1yy

米西戦争~中南米に浸食したアメリカ合衆国

ハワイを侵略し、太平洋へと影響力を拡げたアメリカ合衆国は、同時に中南米へと勢力範囲を拡げようとしていた。

それまで中南米を支配していたスペインが弱体化、諸国民が独立の動きを見せていました。ハワイにおいて「民主主義の勝利」をおさめたアメリカ合衆国は、中南米ののっとりを始めます。

アメリカ合衆国は、ここで独立しようとする諸国民を煽り、協力を得ながらスペインを排除し、アメリカ合衆国の植民地にすることを目論んだのです。

軍部の拡大・軍需の拡大・強制労働の拡大が必要とされた。

インディアン戦争終了によってフロンティアを失ったアメリカ陸軍は、国外に活躍の場を求めていました。また、増長した軍需産業は、新たな需要を必要としていました。さらに、奴隷解放によって、アメリカ合衆国の奴隷制度が廃止されると、米国資本は新たな強制労働・低賃金労働の場として国外をにらみ始めました。

1897年、「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」というまったくの捏造記事をきっかけに、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激しはじめました。

これは、アメリカ合衆国内のキューバへの介入を求める世論を増長する動きでした。捏造記事による世論先導は、その後もアメリカ合衆国の戦争誘発の一つの雛形になっていきました。

テロのねつ造から始まる戦争

アメリカ合衆国にハワイを併合したのと同じ年、カリブ海でテロ事件が発生する。

1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メインが爆発沈没し、266名の乗員を失う事故が発生します。

爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものがありませんでしたが、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの2紙など、当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なテロであると一方的に主張しました。

アメリカの4つのウソ。メイン号事件、ルシタニア号事件、トンキン湾事件、イラク侵攻。これ全部、集団的自衛権がらみ。これに限らないけど、「自衛」に「集団」がくっつくと、もれなく「ウソ」と「捏造」がついてくる。大義すらない戦闘に派遣された自衛隊員の自殺率が一段と増加するのは確実。

さらに外へと拡大しようとする、、、マッキンリー大統領の時代

海のフロンティアを推し進めたマッキンリー大統領

米西戦争へ国を導き、1898年にはハワイ諸島を併合します(ハワイ併合)。

マッキンリーの時代にはアメリカ西部への伝統的なフロンティア開拓は終了しており、新しく国外の「海のフロンティア」開拓を推し進めていました。

彼は、アメリカを国際的な帝国主義政策へ突き進めました。保護貿易主義を採用し、外国製品に対して実に57%という史上最高の関税率をかける「ディングレー関税法」を制定させました。

4月11日、マッキンレー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止。4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した

アメリカ合衆国によるフィリピン・グァム侵略

米西戦争におけるフィリピン侵略

フィリピンでの最初の戦闘は5月1日のマニラ湾海戦でした。

香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃し、6時間でスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥りました。

フィリピン人の独立心を利用し、スペイン駆逐に利用したアメリカ合衆国、だが、、

フィリピンには、まだ1万人のスペイン兵が残っていました。フィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者はアメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃しました。

独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧します。

グアム島をカノン砲で砲撃し、これを占領しようとしたがスペイン側の司令官は戦争が始まったことさえ知らず、島にいた54名のスペイン兵は捕虜となり、グアムはあっけなく占領された。

後に軍事的拠点となるグアムは、このときあっけなくアメリカ合衆国に確保されました。現在、アメリカ合衆国が東太平洋に抱える数多くの領土はこのとき獲得されたものです。

独立運動を利用して親米政権を樹立しようと企てたアメリカ

米西戦争では、アメリカ合衆国は独立運動を利用し、一旦戦争に協力させてから、親米政権を無理矢理樹立するという手段を用いました。

キューバへの侵攻

キューバでも、米軍は地元の独立運動を利用、後に政権を奪い取るという手法が用いられた。

アメリカは、正義の名のもとに、フィリピンだけでなくキューバの独立も「後押し」しました。しかし実態としては、独立運動を利用してキューバやフィリピンの支配権を獲得したのです。

キューバのガルシア将軍によって率いられた独立支持者は、アメリカ合衆国陸軍を援助しました。アメリカ合衆国は独立活動を支援する名目で、キューバを奪取します。

しかし戦後、一方的に支配することになったのは米国でした。

米西戦争の際、キューバ戦線においてラフ・ライダーズ連隊の中佐として指揮し、戦争の英雄となったのが後に大統領となったセオドア・ルーズベルトです。

米西戦争で活躍したルーズベルトが台頭

米西戦争で戦果をあげた軍出身のセオドア・ルーズベルトは、退役し、1900年大統領選の副大統領候補として、当選しました。マッキンリー大統領の二期目の副大統領となったのです。しかし、副大統領では終わりません。マッキンリー暗殺の結果、大統領の座を得ることになります。

セオドア・ルーズベルトは、米西戦争で英雄となり、のちに大統領にのし上がる。

こうして、アメリカ合衆国陸軍は、アメリカ政府中枢に圧倒的に強い影響力を持つようになります。メディアを利用して、他国の問題をでっちあげ、テロを利用して戦争の口実を作り、独立活動家を利用して、国外の領土や経済構造を乗っ取るという手法は現在まで繰り返し用いられている典型的な方法として定着しました。

米西戦争とデュポン社の拡大

アメリカの三大財閥の一つデュポンが急速に成長を始めた。

私たちの生活に欠かせないテフロンやナイロンの開発で知られるデュポンは、火薬メーカーとして南北戦争で巨利をあげて以降、軍産複合体の一角を占めていました。米西戦争以降、二つの大戦を通じて、急速に業績を拡大することになります。核兵器の時代に主役となる企業の一つとなっていきます。

米西戦争では、わずか4ケ月で220万ポンドの火薬を政府に納入しました。

戦争には、事業規模が一桁増えてしまう効果がありました。この戦争でデュポンの生産力は一挙に9倍にアップしました。

米西戦争の結末

スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失う。

交戦状態は8月12日に停止。形式上の和平条約は12月10日にパリで調印されました。以降、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃されました。代わりにアメリカ合衆国が入れ替わって影響力を持つという覇権の移譲とも取れる戦争でした。

米西戦争でスペインに勝利したアメリカ合衆国は、パリ条約でキューバ独立をスペインに認めさせた。

アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置きました。アメリカは名目上「独立を支援」するという立場をとりましたが、事実上植民地の移譲を要求していました。

植民地各国の独立派は、あくまで独立を望んでアメリカに協力した。だが、アメリカ合衆国は事実上、権限を掌握し、資本による支配を始めることになる。

独立精神を利用した侵略は、現代では典型的なものになっています。しかし、後に残された独立精神は、新たな支配者であるアメリカ合衆国に対する敵対勢力となっていきます。

アメリカによるフィリピンの侵略

米西戦争は、フィリピン人にとってはスペインに対する独立戦争であり、独立戦争を戦ったフィリピン人達は、自らフィリピン共和国を樹立しました。しかし、アメリカ合衆国は、彼らから支配権をすぐに奪い取りました。

フィリピン人達との約束をよそに、アメリカ合衆国はフィリピンを「購入」していた。

アメリカ合衆国はアギナルド将軍に協力したら独立させると約束し、マニラの戦い (1898年)でフィリピンの独立を援助する名目でスペインを破ったにも関わらず、12月10日のパリ条約において、アメリカ合衆国は2,000万ドルで「フィリピンを購入」していました。これはあまりにも不誠実な行為でした。

怪しげなテロ事件で始まる米比戦争

アギナルドが大統領に就任したわずか二週間後の1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテの橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺される事件が発生する。

当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと主張、責任をフィリピン側に求めます。

パリ条約でフィリピン購入という条項を含めたアメリカ合衆国はフィリピン人の不審を買うことになります。フィリピン側が同盟者だと考えていたアメリカ合衆国が実は条約上の支配者になってしまったからです。

1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国され、アギナルドが初代大統領に就任しました。独立直後から、フィリピン兵とアメリカ兵の関係は極度に緊迫したものになっていきました。

マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼び、議会を通じた正式な開戦通告を行わないことを正当化した。

アメリカ軍はフィリピンを「国家としてみとない」、「成立した政府を合法的な政権と認めない」という立場を主張。あくまで警察活動であるという名目で、フィリピン人を攻撃しはじめましたのです。

『「国家不承認」すなわち政府ではない、ゆえにテロリストである、従って武力行使しても許されるし、宣戦布告もしない』という理屈は現在まで用いられる典型的な政治表現となりました。詳細不明なテロ事件が起き、その責任を相手国に求め、軍を派遣し、占領するという前例がまた増えることになりました。

アメリカ軍の増派とマッカーサー一族によるフィリピン支配の始まり

アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。

マッカーサー一族がフィリピンを拠点にアメリカへの発言権を増大させていった。

この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアでした。(彼の三男がダグラス・マッカーサー)

インディアン戦争や米西戦争の功績により、軍内部で力を付けていたマッカーサー家は、その後フィリピン経済と軍に関与し続ける有力者になっていきます。

植民地化を開始したアメリカ軍では、1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。

セオドア・ルーズベルトの台頭

副大統領就任の翌年、大統領マッキンリーの暗殺に伴ってルーズベルトは大統領に昇格することになります。アメリカ史における三番目の大統領暗殺事件でした。

この暗殺で、アメリカ軍部とアメリカ政府、そして軍産複合企業という保守体制勢力は決定的に強く結びつくことになります。

謎の暗殺による大統領の交代と軍部の強大化

マッキンリー大統領は、ポーランド系のレオン・チョルゴッシュ容疑者に狙撃されました。大統領の容態の回復が4日にわたって伝えられましたが、5日後に突然頭痛と吐き気を訴え、死亡しました。

体内には銃弾が残されており、医師はこれを見逃していたということになっています。しかし、当時すでに存在し、かの発明家トーマス・エジソンが手配し、現場に届いていたにも関わらず、X線検査は行われませんでした。なぜ、体内の銃弾が取り除かれなかったのかは、現在でも謎の一つとなっています。

通常ではありえない捜査手法と、容疑者の処刑

電気椅子で処刑された後、骨まで硫酸で溶かされるという凄惨な処刑方法でした。ルーズベルト政権は、当然マッキンリー暗殺の首謀者であることを疑われる立場にありました。

1901年10月29日、オーバーン刑務所にて死刑執行。マッキンリーの死からわずか45日後の事でした。

噂が拡大していくことを怖れたため、容疑者は硫酸で溶かされたと説明されます。しかし、そのような措置は前例のないことでした。きな臭い暗殺事件でした。

エドウィン・S・ポーター『レオン・チョルゴッシュの処刑』。マッキンリー大統領を暗殺した罪で電気椅子にかけられた無政府主義者チョルゴッシュの処刑を再現して描いた作品。テロリズムと映画との関わりを示すもっとも古い例の一つ。youtube.com/watch?v=UYSxfy…

軍の発言力強化とパナマ運河獲得

強硬な中南米政策を推し進めたルーズベルト政権

アメリカは、運河候補地であったパナマ(当時はコロンビア領)と、ニカラグアへの干渉を強めていった。

軍部と強い繋がりのあるルーズベルト政権が大統領職につくと、アメリカ合衆国は太平洋と大西洋を結ぶ運河獲得を強硬に指向するようになります。

アメリカ合衆国は、東西に巨大な海岸線を持ちます。軍艦が大西洋と太平洋を行き来するのに南米の南端を越えていく必要がありました。

アメリカ海軍の機動力は太平洋と大西洋に分断されていました。太平洋と大西洋の二つの海軍を結ぶことで、米国のフロンティアはカリブ海に留まらず世界に広がる可能性があったのです。

パナマ地峡はコロンビア領でした。パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくこと画策しはじめた。

パナマ運河が欲しい、しかしその手法は、暴力的であまりに多くの人々を不幸にするものでした。

スエズ運河は、フランスの支援するレセップスが、当時パナマを管理していたコロンビアから免許を獲得し、すでに着工していましたが、1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄されていました。

アメリカ政府は、コロンビア領だったパナマの「独立」を誘導し、奪い取ることを計画します。

今月にパナマ運河で捕獲されたワニがでかすぎて驚愕、もしかすると世界最大のワニとしてギネス世界記録更新の可能性もあるとのこと pic.twitter.com/SQEjNETFrE

千日戦争 アメリカ合衆国のコロンビア干渉とパナマ独立誘導

 

植民地時代にコーヒーのモノカルチャー経済となっていたコロンビア

アメリカ合衆国はコロンビアの経済のコーヒー依存体質という脆弱性を利用します。コロンビアは、スペインの植民地支配を受けていた間にコーヒーの単品生産経済となっていました。コーヒー栽培は水を大量に使うため灌漑事業が必要でした。そのため、古くから植民地支配に利用されてきました。

米国は、コーヒー豆の取引に干渉、1899年1月、コーヒー豆の国際相場が暴落します。

コロンビアの保守党政権は関税収益の減少を紙幣増刷で賄おうとしましたが、国家財政は破綻します。紙幣発行の乱発によりインフレが加速、コロンビア経済は混迷を極め、国民生活は窮乏することになりました。

しかし、背景にはパナマ運河の獲得をもくろむアメリカ合衆国の思惑があったのです。

経済を攻撃することで、内戦を引き起こすという手法の前例となった。

米国資本は積極的に、コロンビア国内の混乱を煽りました。コーヒー農家は各地で反乱を起こし、野党を巻き込んで内戦に発展しました。

反乱軍がベネズエラから軍事援助を受けるなどしたため、3年にわたる大規模な内戦に発展しました。

1901年、アメリカ政府は国益保護を名目にコロンビアに軍事干渉を開始した。

名目は、「合衆国の国益を保護すること」でした。現在まで続く、軍事干渉を正当化する名目の一つです。混乱を生み出したのはパナマを奪おうとする米国自身でした。

コロンビアへの不平等条約

1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約がアメリカとコロンビアとの間で結ばれる。しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった。

『1000万ドルの和解金と年25万ドルの使用料で100年にわたるパナマ運河の建設権および運河地帯での行政権を認める。条約更新の優先権は米国側にあり、コロンビアは米国以外の国に譲渡できない。』

コロンビアにとっては絶対に受け入れられない国辱的内容でした。政府は署名したもののコロンビア議会は条約を批准しませんでした。8月12日、コロンビア議会はパナマ運河条約批准を否決。

パナマを分離独立させたアメリカ合衆国

必要な地域だけ分離独立させてしまうという方法(1903年)

一方的な不平等条約に対する、コロンビア市民の選んだ議会の判断でした。容易に予想される結果でしたし、そのことは合衆国政府も理解していました。米国は、より暴力的な次の手を用意していました。

アメリカ合衆国にとって、今やコロンビアからパナマを分離独立させてしまうことは容易でした。

コロンビア経済はすでに内戦で疲弊していました、パナマ地域には運河による収益をちらつかせ、武器を与え、独立を煽動すれば、簡単に独立運動を演出できる土壌を作っていたのです。

3ヶ月後、米政府はパナマ地方の反乱を支援しパナマ地峡を制圧した。

アメリカ合衆国は、パナマという運河利権を国土ごとコロンビアから分離独立させて、支配を獲得しました。コロンビア本土の内政にも干渉し、米国はマロキン政権を打倒、親米傀儡政権を樹立させました。

ラテンアメリカは、米国の裏庭と呼ばれるようになった。

コロンビアは、スペイン支配から独立し、コーヒー単一産品という壊れた経済から、自立した経済へと移行しようとしていました。しかし、その独立の芽は米国の思惑の前に摘み取られてしまったのです。

アメリカ資本に隷属する時代が始まりました。現在最も南米で危険な国と言われるコロンビアは、その民主主義の芽生えを踏みつけられた結果です。

パナマ運河の建設

パナマ地域はコロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となった。

新たに制定された憲法ではパナマ運河地帯の幅16kmの主権を永遠にアメリカ合衆国に認めるとの規定があり、以降パナマはアメリカ合衆国によって事実上支配されることになった。

アメリカ合衆国はパナマの独立宣言から10日後に国家として承認、その5日後にはパナマ運河条約を締結し、工事に着手した。そして、運河は、合衆国によって永久租借された。

アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトはわずか10日後の1903年11月13日にパナマ共和国を承認しました。

その5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権を取得し工事に着手します。

第一次世界大戦の始まった1914年にはパナマ運河を開通ます。そのなめらかな動きはあらかじめ計画されたものでした。

運河が完成するとアメリカは列強に軍縮を要求した

アメリカの軍艦は、大西洋と太平洋を行き来できるようになった。

米国は、パナマ運河の開通によって大西洋・太平洋をまたぐ艦隊移動を可能にすることに成功しました。パナマの独立というタテマエは今やささいなことでした。

東西の海軍をつなぐことでアメリカ合衆国は、地球全体に軍事的影響力を及ぼせる能力を獲得したのです。

アメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングは、第一次世界大戦戦勝5ヶ国の軍縮を提言、条約は建造中の艦船を全て廃艦とした上で、米及び英・日・仏及び伊の保有艦の総排水量比率を5:3:1.75と定めた。

合衆国は、パナマ運河開通により東西を艦隊が短期間で行き来できるようになったため海軍装備を減らしても、それ以前より圧倒的に海軍力は高まっていました。アメリカ合衆国は、パナマ運河獲得の軍事的優位を外交に積極的に利用しはじめます。第一次大戦で疲弊した英仏伊、日露戦争の戦時国債の借り換えに苦心していた日本の状況を利用し、各国に軍縮を要求しました。

日露戦争への干渉

太平洋を西へとその派遣を拡大していたアメリカ合衆国は、東アジアへと向かい始めます。セオドア・ルーズベルト政権は、日露戦争に干渉しました。

ロシアへの戦争を日本にけしかける英国とアメリカの様子を描いた当時の諷刺画。

日露戦争当時の日本経済は、名目GNP約30億円、国の一般会計予算約3億円、日銀券発行残高約3億円、全国預金残高7億6千万円というサイズでしかありませんでした。日本は当時のGNPの2.5倍、国家予算の60年分の負債を積み上げて日露戦争に挑みます。

日露戦争の第1回の戦時国債は1,000万ポンドが必要だった。これを日本は獲得できずにいた。ある銀行家の晩餐会で高橋は、隣席したシフから「日本兵の士気はどのくらい高いか」などとの質問をうけ、高橋が応答すると、翌朝500万ポンド公債をシフが引き受けることが伝えられた。

このぎりぎりの戦争で、戦争資金を提供したのは、米国のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフを筆頭とする米国と英国の銀行家でした。当時、アジアでは、イギリスが南下するロシアと拮抗していました。一方イギリスは南アフリカでのボーア戦争で戦費を費やし、疲弊していました。

米国は日本へ金を貸し付け、日英同盟を根拠に戦争へと焚き付けました。
シフはロシア革命にも出資ソビエトを支援して、帝政ロシアの打倒へと誘導しました。

一連の出資で、シフらは膨大な利益を獲得します。

日本は、1904年の日露戦争の負債を1986年まで返済し続けることになった。

日本は、日本海海戦には勝利しましたが、国力はギリギリまで疲弊、出口の見えない状況に追い込まれました。

講和交渉を勧告したセオドア・ルーズベルトはノーベル平和賞を受賞した。

満州権益の漁夫の利を狙った米国と拒絶した小村寿太郎

日本は、桂・ハリマン協定を小村寿太郎外相の反対で破棄。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となります。

米国の西方進出の野心は満足されず、後の排日移民法、そして太平洋戦争への流れを作っていきました。

セオドア・ルーズベルト政権は、その資金調達から、出口戦力まで、実際には日露戦争に深く関与していました。

しかし、「停戦交渉を勧告した」という業績で、ノーベル平和賞を受賞しました。

アメリカによるグアテマラ支配のはじまり

アメリカ合衆国のグアテマラ支配は、自由主義の打倒から始まった。

早くに独立したグアテマラでは、1871年には自由主義的な政権が成立していました。ホセ・マリア・レイナ・バリオス大統領が統治していました。

彼は、自由主義を推し進め、各国に市場を開放しました。先進国に互いに競争させながら開発させることで、いずれかの国が一方的に支配することを抑止し、各国を競わせながら海外からの資本・技術の移転が進むようにしたのです。

1879年には憲法も制定され、自立の道を着々と歩み始めていました。しかし、アメリカ合衆国は、彼の方針をよしとはしませんでした。

バリオスの政策の下で、米国資本は「市場を独占し産業構造を独立維持できない状況を作りだし、労働単価を抑制する」というこれまでのモデルを適用できなかった。

自由主義的政策の元、グアテマラではプランテーションの大規模化が進み、原住民の労働単価が健全に上昇していきました。米国企業とスペイン系やドイツ系農園が競合し、競争に敗れた米国企業はむしろ劣勢になっていきました。

バリオス政権の考え方は、国家が自立するための最も合理的な選択でした。しかし、アメリカ合衆国にとって、今や自由主義はビジネスの邪魔でしかありませんでした。

アメリカ合衆国の望んだのは、自由な競争ではなく、合衆国による独占だったのです。

アメリカ化を避けるバリオス政権は、日本からの移民も受け入れた。

グアテマラの農園は、日本からも移民を受け入れ、政権もそれを支援していました。バリオス政権は、「アメリカ化」への対策を確実に打ち出していました。

産業の発達とともに進む労働単価の上昇という健全な経済成長は、米国にとっては決して受け入れられるものではありませんでした。そこで、非合法手段を用いてでも、政権を奪い取ろうと企てたのです。

ホセ・マリア・レイナ・バリオス大統領が暗殺され、独裁者カブレラが大統領に就任する

1898年2月8日、自由主義的な大統領が暗殺され、独裁者カブレラが擁立されることになります。これがグアテマラの民主主義を摘み取る事件になりました。

バリオス暗殺後、ユナイテッドフルーツは、グアテマラにおいて1871年に鉄道建設の権利を獲得しました。鉄道完成後は非常に低い賃金で労働者にバナナを栽培させ、アメリカ合衆国で販売しようとしました。

独裁政権を利用し、都合の良い税制に変更させるなどの優遇政策を推進させ、数年後にはユナイテッドフルーツ社がグアテマラの国土の大部分を保有してしまう事態になります。

痛みやすく、個人では流通させにくいトロピカルフルーツは、大企業経営と極めて相性がよかった。

バナナは傷みやすく、流通過程まで含めた厳重な管理がなければビジネスにならないという性質を持っています。バナナプランテーションによって産業構造そのものを破壊し、米国系企業に雇用されなければならない生活できない状況を作り出します。その労働条件は、米国で廃止された奴隷制度の移転ともいえるものでした。

Doleのパイナップルがハワイでのアメリカ資本を象徴するように、中南米ではChiquitaバナナがそれを象徴しています。Chiquitaはユナイテッドフルーツ社のブランドとして、全世界で販売されています。

資本が乗っ取ったグアテマラの産業

暗殺という非合法活動が一国の経済と民主制をひっくりかえしました。こうしてグアテマラに、米国ユナイテッドフルーツのバナナ産業が入り込んだのです。その後、100年にわたってグアテマラは悪夢の歴史を歩むことになります。

1898年、前大統領が暗殺されたことにより、カブレラ大統領が誕生します。

カブレラは、ユナイテッド・フルーツ社と結託し、数年の内にバナナ産業を独占し、鉄道・港湾・通信網を支配させました。1903年には憲法改正により大統領の再選禁止条項を破棄。次第に独裁色を強めていきました。

アメリカ合衆国による独裁者製造という典型的手法の先駆けとなる事例でした。彼は傀儡、アメリカ合衆国の操り人形だったのです。

カブレラは、22年間にわたり独裁政治を行った。伝統的な地主層を抑圧しつつ新興のコーヒー農園層を支援し、米国資本の優遇策をとった。

アメリカ合衆国のユナイテッド・フルーツ社には広大な土地の取得権だけでなく主要鉄道の運営権も認められました。

ユナイテッドフルーツの所有する土地は不当に安い評価額が設定され、固定資産税が減額されていました。グアテマラの富みは一方的にアメリカ合衆国に持ち出され、本来なら国民に還元されるべき利益は全く残されませんでした。

キューバの独立とアメリカの侵略

米西条約の講話であるパリ条約によって、キューバは形式上独立しました。しかし、「独立」は、米国支配の始まりを意味しました。

「キューバの独立を守るために、アメリカが内政に干渉する権利を認めさせる」という本質的な矛盾をキューバ憲法に組み入れさせた。

セオドア・ルーズベルトは、キューバに圧力をかけ、プラット条項と呼ばれる不平等条項をキューバ憲法に組み入れさせました。

キューバが自らの独立を危うくしたり、領土を割譲するような条約をアメリカ以外の外国と締結することを禁じ、さらにキューバ政府が国民の財産や生命を守れない場合はアメリカが内政干渉する権利を保持し、キューバに石炭補給地と海軍基地を建設する権利も認める、というものでした。

アメリカの保護国となってしまったのです。

アメリカの企業である、キューバ・アメリカ製糖会社、キューバ大西洋製糖会社、ユナイテッド・フルーツ社などは、広大なサトウキビ作付け地を手にしており、砂糖生産の半分以上をアメリカの企業が占めるようになった

形式的独立後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、精糖産業や穀物、たばこ産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配しました。

輸出の 8割を砂糖が占める、モノカルチャー経済が形成されたことで、名実ともに完全にアメリカの植民地となりました。

今やキューバは、自力では経済を維持できない状況が作られたのです。砂糖しか作れない国は、独立したら飢え死にしてしまいます。

アメリカへの経済的従属も進み、砂糖やバナナなどの商品作物の供給地として、アメリカ合衆国にとっても必要不可欠な島となっていった。

現在へと続くグアンタナモの租借

現在もキューバの東端に存在する、アメリカ合衆国基地グアンタナモは、このキューバ独立に始まる租借地だ

現在では敵対する国の領土に米軍基地が存在しているという異常な状態が続いています。キューバ革命によって成立したフィデル・カストロ政権は、米国と対立し、国交を有してしません。しかし、米国はこのときの「契約」を根拠に、グアンタナモへの米軍基地の設置を公然とおこなっています。カストロ政権は、基地租借を非合法と非難していますが、アメリカ合衆国は返還を認めずキューバ領土内から撤退していません。

完全な治外法権の基地を持つアメリカ合衆国

周囲が地雷原で脱走が不可能な上、マスメディアにも実態が見えない海外基地。更にはキューバ国内でも米国内でもない、国内法でも国際法でもない軍法のみが適用される治外法権区域となってしまいました。グアンタナモでの捕虜の残酷な扱いは、しばしば問題となっています。いわば、やりたい放題の基地なのです。

20世紀後半からキューバやハイチの難民や、アメリカ合衆国がテロリストと認定した人々を収容してきました。

アメリカ軍の支配したキューバ

キューバにも作られた親米政権

「独立」したキューバは、1908年の大統領選挙で親米政権を樹立。これをうけて米軍は撤退しました。独立とはほど遠い、アメリカ合衆国傀儡政権の誕生でした。

当然、民衆は受け入れることはなく、反乱が頻発しました。1912年には白人支配に反発する黒人の反乱が発生したため、ゴメス政権はアメリカ軍と結んでこれを鎮圧しました。

1920年選挙をめぐり混乱が深まり合衆国軍の介入を受けました。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続きます。

米国資本によって労働力を支配する政治が行われた。それを維持するために、独裁政権は維持され、独裁政権は米軍の介入と米国の資金を常に受け取り続けた。

民衆の支持しない独裁者の力で、本来なら民衆を支配することはできません。しかし、民衆の所得よりはるかに大きな資本を投下するとき、外からの圧力で支配することは可能なのです。

独裁政権を維持するために、貧困層が作られた。

貧困を作ることは国外からの資本投下を容易にします。独裁政権をアメリカが支援し、独裁政権がキューバ人からアメリカ企業が労働力を収奪する構造を推進するという体制が構築されていったのです。

第一次世界大戦とアメリカ合衆国

ウィルソン政権下でハイチがアメリカ合衆国の保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。

ヨーロッパで第一次世界大戦が始まったとき、米国は参戦に消極的でした。しかし、やがて米国の覇権主義と第一次世界大戦がリンクしていくと、参戦へと歩み始めます。

第一次世界大戦勃発時、アメリカの世論は、ヨーロッパの戦争には関わりたくないという意見が多数を占めていました。

実際、第一次世界大戦が始まったころは、単独での中南米の侵略は十分魅力的であり、ヨーロッパ戦線を持つ魅力はそれほどありませんでした。

われわれの孤立した地位と込み入った同盟に巻き込まれていないことが、われわれはヨーロッパの闘争に牽きずり混まれることはないという陽気な確信を我々の新聞に吹き込んでいる。

出典リタレリ・ダイジェスト紙 ウィルソン大統領

リタレリ・ダイジェスト紙は、367人の新聞編集者へのアンケート結果として、242人が中立、105人が協商国側、20人が親独であると報じました。メディアによる扇動によって、中立支持の世論はたやすく破壊されていきました。メディアによる参戦誘導が始まったのです。

ボーイングの設立

このころ、米国の軍事産業を支えることになるボーイングなどの航空会社が登場し始める。

1916年、ボーイングはパシフィック・エアロ・プロダクツを設立しました。

1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したのを機にボーイング・エアプレーンに改名し、海軍から50機の注文を得ます。

軍事産業の一角としてのボーイングの歴史の始まりでした。

第一次大戦が終わるまでにボーイングは急速に事業を拡大しました。

1934年に、独占禁止法によってユナイテッド・テクノロジーズ(現在は年間売上5兆円の複合企業となっている)、ユナイテッド航空、ボーイングに分割されました。

いずれも、現在まで成長の続く巨大企業です。

第一次世界大戦への参戦

第一次世界大戦が始まると、海軍力の圧倒的な優位性を利用して、イギリスが海上封鎖を実施。結果的にアメリカのドイツ・オーストリアへの貿易額が減少、英仏との経済的つながりが高まっていった。

イギリスもフランスも大量の軍需物資をアメリカから購入していました。アメリカ合衆国は、戦争のおかげで、アメリカは開戦時に約30億ドルあった債務を、1915年のうちに全て返済することができました。アメリカは戦争中に債務国から債権国になり、イギリスやフランスの債権を大量に保有することになりました。今や、英国やフランスはアメリカ合衆国の言うことを聞かなければならない立場になってしまいます。

アメリカにとっての超絶な好景気の時代の始まりでした。アメリカ合衆国大統領の発言も、いかに戦争をするかという立場に変わっていきます。

世界は人類のために安全なものにされなければならない。正義は平和よりも更に貴重なものである。

出典ウィルソン大統領

もしキリストが、われわれの立場にいて、われわれがもっているような機会に恵まれたとしたら、今日、何をしたであろうか。

出典ウィルソン大統領

戦争を正当化する言論は次第に強まっていきました。ウィルソン大統領の発言もまた、戦争へと納税者を導こうとするものでした。

1917年4月6日にアメリカはドイツに対して宣戦を布告しました。ドイツ優勢だった戦線は、総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、逆転することになりました。

そして、第一次世界大戦は、アメリカ合衆国のビジネスの源泉になったのです。

ロシア革命

ロシア革命(十月革命)中に、レーニン率いるソビエト政権の第2回全ロシア・ソビエト大会で『平和に関する布告』が発表が発表されます。

その内容は、「無賠償」・「無併合」・「民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案したものであり、ロシア最初の対外政策でした。

しかし、欧米諸国は第一次大戦に投じた利益を回収できなくなるこの提案を受け入れることができません。最初の列強の反応は、無視でした。

レーニンの資金的背景にも、アメリカの銀行家・ジェイコブシフが居ました。彼は一方で日露戦争で日本を支援し、一方でロシア革命を支援して帝政ロシアの打倒を狙いました。

帝政ロシアによるユダヤ人弾圧を口実としたシオニズム(イスラエルへのユダヤ人移民)の動きが、スエズ運河権益問題と結合し、始まっていました。

サイクスピコ協定の暴露

当時、英国は、中東をめぐって三枚舌外交を展開していました。

ロシア・フランスと中東を分割するサイクス・ピコ協定は、オスマン帝国打倒への協力の見返りにアラブ人の統一国家樹立に協力するというフサイン・マクマホン協定、戦費調達への協力の見返りにパレスチナにユダヤ人国家建設を容認するというバルフォア宣言と互いに矛盾していました。

平和に関する布告を無視されたレーニンは、帝政ロシアが結んだ秘密条約の存在を暴露してしまいます。

バルフォア宣言・サイクスピコ協定・フサインマクマホン協定の相互矛盾が明るみになる事態に

バルフォア宣言の受取人だったウォルター・ロスチャイルド。英外相アーサー・バルフォアに働きかけ、彼からバルフォア宣言を出させるのに

英国は、オスマン帝国打倒への協力の見返りとして、アラブ人統一国家の建設への協力を約束していました。

しかし、列強による中東分割という密約が裏で行なわれていたのです。

戦後、中東は欧米の言いなりになる複数の王国に分割され、独裁者である王族を欧米が支援し、利益を欧米に移転する体制がが構築された。

すでに、ユダヤ人によるパレスチナへの国家建設と、列強のスエズ運河権益をめぐる利害は経済的に結合していました。

アラブ人からイスラエルを切り離すことは、西側諸国の経済的利益を意味しました。

ロシア革命への干渉

「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した。

レーニンは、欧米の密約を暴露するなど、民族の蹂躙に対して強い態度で反対しましたが、欧米の反応は誕生まもないソビエトに軍事干渉するというものでした。

後のパレスチナ問題・クルド人問題へと繋がっていきます。

ハイチ・ドミニカ共和国への干渉

第一次世界大戦を口実に、ドミニカ・ハイチへと手を伸ばしたアメリカ合衆国

米西戦争でカリブ海へと勢力範囲を広げたアメリカ合衆国は、第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み、「ドイツ帝国が手を伸ばすのを避けるため」という名目で、アメリカ合衆国は両国に海兵隊を派遣しました。

アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領しました。

大きな戦争が小さな占領を許容するという名目は、その後も用いられます。

あらゆる不正を行い作られた独裁者

アメリカ合衆国は、ドミニカ共和国にも独裁者を擁立しました。最悪の独裁者と言われるラファエル・トルヒーヨでした。

トルヒーヨはアメリカが設置させた国家警察隊内部で、異例の昇進を重ね1924年に少佐、1928年に陸軍参謀総長に昇進。軍内最高実力者の地位を確立します。

1930年に大統領選に立候補すると、軍を使って選挙管理委員会や反対派に脅迫を行う等あらゆる不正を行い「95%の得票を勝ち取り」選挙に勝利しました。

アメリカ合衆国にとって「民主的」に選ばれたドミニカ共和国大統領の誕生でした。

トルヒーヨ政権は、米国によって作られた独裁政権だった。その維持には人命を含む膨大なコストが必要だった。

トルヒーヨもまた、アメリカ合衆国経済のために仕事をすることが求められた独裁者です。ドミニカ共和国の国民から資本を簒奪し、合衆国に流す見返りに、その地位は維持されました。合衆国はトルヒーヨに資金を供給しました。

全耕地の1/3を横領、砂糖・コーヒー・ビール・タバコなど国家のめぼしい産業は全てトルヒーヨ一族に支配させ、トルヒーヨの個人資産は10億ドルにものぼりました。

さらに多くの政敵や批判者を亡命や国外追放に追い込み、恐怖政治によって体制を固めていきました。

米国企業が罪を免れながら、支配するために、権力者を作り上げ、個人の責任で住民を殺戮させる歴史

独裁者が、殺戮したのであって、企業は関与していない。独裁者が殺戮したのであってアメリカ合衆国は関与していないという名分が立ちます。独裁者を作るという手法は冷戦終結後まで続く伝統的なものになっていきました。

米資本が経営する農場でストライキが発生すると、躊躇せず大虐殺を行なった。

1937年に米資本が経営する砂糖きび農場で、ハイチからの出稼ぎ労働者によるストライキが発生すると、トルヒーヨはドミニカ共和国を白人化する目標を掲げ、婦女子をふくむハイチ系住民の掃討作戦を指示したのです。

1万5千の兵が動員され、国境付近に住むハイチ系住民を1日で少なくとも17000人虐殺しました。実際には、35000人に達したとも言われています。

31年間の長期独裁体制下で個人崇拝を徹底させ、国家経済の大部分を私物化した彼の政権を支えたのはアメリカ合衆国でした。

ソビエト連邦のスターリンの粛清はしばしば共産主義批判のために用いられます。しかしアメリカ合衆国による粛清もまた、このような形で存在していました。

14か条の平和原則

ノーベル平和賞を受賞したウィルソン大統領

ソヴィエトの「平和に関する布告」に対抗して、ウィルソン大統領が14か条の平和原則を発表。その内容は、レーニンの平和に関する布告の劣化版でした。

「ヨーロッパでの民族自決」を訴えながら連合国側の植民地に配慮、適用範囲は敵対する同盟国の範囲に限定、平和機構の樹立を訴えながら米国は国際同盟に加盟せず、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなったのです。

十四か条の平和原則を発表、国際連盟の創設に尽力したとして、ノーベル平和賞を受賞しました。平和賞は、その陰の部分を隠すために利用されたのです。

軍需工業に向けられた疑念

第一次世界大戦後、軍需産業とアメリカ参戦の関係が、議会の調査を受けることになる。だが、調査は途中で打ち切られた。

このころには米国の軍事産業は、政策決定に深く関わっていることが分かります。いまや、議会は資本介入に対して無力になっているのです。

戦後、合衆国議会ナイ委員会は、第一次大戦を通じて軍需産業が巨大な利益を得たと立証した。

銀行家がウッドロウ・ウィルソン大統領に対して、海外への債権を保護するため、戦争に介入するよう圧力をかけていたことが明らかにされました。軍事産業の利益は、銀行の利益でもありました。銀行の利益は、全ての企業にとって融資条件改善の圧力となります。今や、経済全体が戦争に依存していました。

調査は1936年はじめに突然打ち切られました。ナイ委員長が民主党のウィルソン元大統領への非難に踏み込むと、上院は委員会への活動資金提供を止めたのです。

ナイは、ウィルソンが宣戦を考慮して議会に重要な情報を伝えなかったことを示唆していました。軍需産業は、第一次大戦を通じてアメリカの外交政策に強い影響力を保持し、価格操作に対して責任がありました。しかし、調査は打ち切られてしまいました。

狂乱の1920年代、マフィアがアメリカの政治と融合した時代

第一次世界大戦後、空前の好景気を迎えたアメリカ合衆国の1920年代。新しい勢力として社会的地位を固めていったのがマフィアでした。

第一次世界大戦の復興特需でアメリカ資本は膨大を続けた。

第一次大戦で戦場にならなかったアメリカは、ヨーロッパの復興特需で一方的に資本を膨張させていきます。これにともなって、中南米の資本支配が一層進むことになりました。中南米諸国の政府や軍部をアメリカ政府が動かし、またそれと同時に米国系企業からの資金が中南米諸国の独裁政権に流れることで、独裁親米政権が各国に構築されていったのです。

ファシズムの弾圧をうけたマフィアを、アメリカは受容した。

シチリア島発祥のマフィアは1920年代から1930年代にかけてベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権によって徹底的に弾圧され壊滅的な打撃を受けました。彼らは、新天地アメリカを目指します。非合法組織を追放したのはファシズム、受け入れたのはアメリカ合衆国でした。

ファシズムは、マフィアを弾圧しました。アメリカ合衆国は、追い出されたマフィアを受け入れ、自国の資本主義経済に組み入れました。

マフィアは、禁酒法とリンクしてアメリカ国内で力を取り戻し、その後第二次世界大戦中には政府・軍と協力することで、アメリカ経済に取り込まれた。

第二次世界大戦中、アメリカ海軍に協力し、波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示したことでも知られています。アメリカ政府とマフィアは協力関係にありました。

アメリカ軍部・CIAとマフィアのつながりは巨大な資本を背景に構築されていきました。政府が非合法活動にマフィアを利用した結果、アメリカ合衆国の中南米支配には深くマフィアが関与することになりました。

禁酒法時代に、シカゴで高級ホテルを住まい兼事務所にしてそこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し、犯罪組織を統合近代化していったことで知られています。

ラッキー・ルチアーノは、マフィアの古いしきたりをやめてビジネスとして組織し、人種にこだわらずにアメリカ的な合理性を追求して勢力を拡大していきました。

ケネディ大統領の父もまた、禁酒法時代にマフィアとの関係を持つ

第35代大統領のジョン・F・ケネディの父。

1920年代、禁酒法時代にマフィアと組んで酒類の密輸で稼いでいました。1920年代後半、父ケネディは株式取引で得た資産を当時の新興業界であった映画産業に投資し、成功しました。

巨大な資産をバックグランドにした民主党の有力政治家となっていきます。

第二次世界大戦中に対伊攻略のためアメリカ政府が利用したマフィア

アメリカ軍は、イタリア攻略のために積極的にマフィアを利用しました。また、中南米諸国などで行われる非合法活動には、政府とは独立した勢力が必要とされていました。アメリカ合衆国はその建前を都合よく作り出すために、非合法組織を必要としていました。

1930年代後半から1950年代中頃までマフィア最高幹部会コミッションの議長。FBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官やジョセフ・P・ケネディと付き合いがありました。

港湾労働力を支配したマフィアは、アメリカ軍・企業と連携していった。

港湾労働力を支配したマフィアと、中南米での非合法行為は、政府や軍部、大企業の結合と利害が一致していました。

アメリカ合衆国は世界最大の麻薬消費国になってきました。

デュポンによるGM社ののっとり

米西戦争で規模を一桁拡大した火薬メーカーのデュポン社の社長ピエール・S・デュポンは、第一次世界大戦の始まった1914年に自動車メーカーGMに出資すると、創立者のデュラントを追い出し、GMの実権を奪います。その後、GMはデュポンの巨大資本に支援される形で世界最大の自動車メーカーに成長します。

のちに、社長から国防長官を輩出するなど、GMはデュポン財閥の一角としてアメリカの軍部・政府と深く関わるようになっていった。

ソビエト経済とつながる米国ユダヤ資本

アメリカ合衆国とソビエト連邦の経済は、
ユダヤ系資本によって繋がった。

世界が共産主義のソビエト連邦と資本主義のアメリカ陣営とに分かれていく流れの中で、その双方と経済関係を維持したグループも存在していました。

アーマンド・ハマーはロシア系ユダヤ人でアメリカ共産党の元となった社会主義労働党の創設者ジュリアス・ハマーの子として生まれました。

彼は、ロシア革命直後のソビエト連邦と貿易ビジネスを開始し、ウラジミール・レーニンの信頼を得て、アメリカやカナダとソ連との貿易を一手に担いはじめました。

第二次世界大戦後、このとき作り出した東欧諸国とのパイプを生かして事業を拡大していきます。

美術品収集家であるハマーは、「ロマノフの財宝で巨財を築いた男」と呼ばれることもある

ハマーは、ロシア革命直後の経済復興を願うレーニンとアメリカの余剰穀物をソ連に送ることを約束し、その代わりにロシア産の毛皮、キャビア、美術品、宝石などの特産物をアメリカに輸入したいと提案しました。レーニンは、この申し出を歓迎しました。

ハマーの死後、ロサンゼルスに開かれた美術館があります。かれは、第二次大戦後までにソビエト連邦との貿易で莫大な資産を形成、大戦後、石油・原子力へと資本投下していきました。

赤い資本家と言われたアーマンド・ハマー。

ハマーはモスクワに数年間滞在し、レーニンを含むソ連の最高幹部と親密な関係を結びます。1990年に死去するまで、70年にわたって米ソ間を数え切れないほど旅し、ソ連のトップと、アメリカの指導層を結ぴつけていきました。ソ連首脳はゴルバチョフまでの歴代書記長、アメリカはレーガン大統領までの歴代大統領と親交をもっているとされます。

米国のフォードの自動車がトルコで生産され、ソ連へと輸出されていました。

こうして、ソビエトは社会主義を謳いながら、米国資本主義と深く関与していました。ハマーは後に、欧米資本によるイランやリビアへの介入の影の立役者となっていきました。

コロンビアでのバナナの虐殺

ロシア革命の影響で労働運動が高まり、8時間労働・週六日労働・労働条件の明文化といった事項が、労働運動の主題となった。

パナマ運河を乗っ取られたコロンビアは、その後米国資本による侵略を受け続けました。

ユナイテッドフルーツ社はここでも力を行使していました。

ストライキの鎮静化が、虐殺行為に発展した。

反共を口実とした大虐殺が行なわれた。

1928年11月12日、コロンビアのサンタ・マルタ近郊の農場で労働者のストライキが勃発します。

12月6日コロンビア軍によって鎮圧され、2000人ともいわれる犠牲者が出ました。

合衆国やコロンビア軍は、共産主義革命対策だと主張した。

このとき、コロンビアのホルヘ・エリエセル・ガイタン議員が、ユナイテッド・フルーツ社のために軍が行動したと非難しています。しかし、両国政府は、これを否定、「共産主義革命対策」だと主張しました。

労働者の怒りを、共産主義と呼ぶ。第一次世界大戦後のアメリカ合衆国は、反共という名目を労働者弾圧の旗印としていきます。共産主義を悪だとすることで、自らの強権的な支配を肯定するための道具として利用していったのです。

バナナ戦争

第一次世界大戦後、アメリカ合衆国によって中央アメリカ諸国に対する軍事介入がさらに推し進められ、バナナ戦争と呼ばれる一連の戦争が発生しました。

その名称は当時中央アメリカで経済的な利害関係を有していたユナイテッド・フルーツ社が、プランテーションでバナナやタバコを栽培していたことに由来します。介入はユナイテッド・フルーツをはじめ、アメリカ企業に対する革命運動の抑止を目的としていました。

バナナは、傷みやすいため、管理組織が流通に関与しやすいという特徴を持ちます。アメリカは、中南米諸国に独裁政権を樹立させ、農村部の土地を接収・バナナ単品農業に移行させることで。資本による支配を推し進めていきました。

バナナ単品の農業経済では農民達は自活できないため、生活が維持できるギリギリの労働単価で労働力を収奪される経済が構築されていったのです。

必然的に、農民達の不満は、革命運動を引き起こしかねない水準となります。アメリカ資本によって独裁権力が維持され、農民達の不満を抑制するには、強権的な軍事力の行使が不可欠だったのです。

キューバ
ドミニカ共和国
ハイチ
メキシコ
ニカラグア
パナマ
コロンビア
グアテマラ

これらの国が、バナナ戦争の対象となりました。

バナナで有名な米ドール社は70年〜80年代にかけて米国では使用禁止となった農薬を使い、ニカラグアでバナナの生産を続けたため、長年農薬を浴びた男性労働者たちが無精子症になり、ドール社の法的責任を問う裁判をドキュメンタリーにしたもの。youtu.be/F6zCPt6cBoM

第二次世界大戦下のグアテマラとユナイテッドフルーツ

グアテマラでは、マヌエル・ホセ・エストラーダ・カブレーラ大統領が、アメリカ合衆国の支援のもと、22年間にわたって強硬な独裁政権を維持しました。しかし、地震をきっかけに民衆のデモが爆発し、独裁体制が一時的に崩壊します。

地震をきっかけにグアテマラの独裁が崩壊、しかし再び

1920年に首都を襲った地震が発生すると、政権への反発デモが活発化し、カブレラは退任に追い込まれます。その後、クーデターが繰り返される不安定な状況が続きました。しかし、再び、強力な親米政権として1931年、ウビコ政権が成立します。

ウビコは、グアテマラ大統領として13年にわたる独裁政治をしました。1931年の大統領選挙に出馬し唯一の候補として議会の承認を受け大統領に就任。強権政治を展開しはじめます。

公務員の給料を4割カット、大量解雇するなど、極端な経済引き締め策を採りました。

周囲の反発に対しては大統領直属部隊の「国家警察軍」を創設することで備え、純然たる暴力の政治が行われたのです。

ユナイテッド・フルーツ社には数100万ヘクタールの土地を明け渡し、免税特権を付与するなど優遇措置を講じた他、国内に米軍基地を設置

ウビコは、公然とファシズム政権であることを標榜していました。アメリカ合衆国は、親米独裁政権であり、米国企業のための政権を維持さえすれば、ファシズムをも公然と支援していました。

ユナイテッド・フルーツ社に鉄道建設と引き換えに事実上の経済的支配権を許すなどの政策を推進したウビコ政権。

1933年には、反対派100名を銃殺した。

ウビコはファシストでしたが、ユナイテッドフルーツとの関連を強め第二次世界大戦がはじまると、枢軸国側に宣戦布告しました。自由主義的だったバリオス大統領時代には、米国以外のドイツやスペインなどから移民を受け入れており、米国資本と競合関係にありました。第二次世界大戦が始まると、ウビコ政権は彼らを敵性勢力として迫害します。

主にコーヒー農園主だった5000人のドイツ系住民の入植者を敵性勢力であるとして一方的に弾圧し、その農園を没収した。

第二次世界大戦では、ドイツ系住民を弾圧し、農園を奪い取りました。グアテマラからは、スペイン系地主とドイツ系地主の両方が駆逐され、最終的にユナイテッドフルーツなどのアメリカ系農場だけが支配する体制が構築されたのです。

アメリカ合衆国は、ドイツに宣戦布告することで、中南米各国に入植し、競合していたドイツ系移民の弾圧を正当化していました。

世界恐慌

1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、ニューヨーク証券取引所における株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展し、世界各国に経済的・政治的混乱を広げます。

フランクリン・ルーズベルト

T.ルーズベルトの従弟であるフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任する。彼は軍事部門を増強し、太平洋戦争への歩みを作っていった。

米西戦争後に妖しくも大統領に就任したセオドア・ルーズベルトの従弟であるフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任したのは1933年のことでした。

アメリカ合衆国の軍事部門と企業のつながりはより大規模なものとなります。長距離大型爆撃機、原子爆弾などの開発が始まったのがこの時期です。

国際戦争の立案

パナマ運河が開通し、第一次世界大戦では膨大な富を集積、中南米の支配は堅固なものになるとともに、中南米だけでなく、大洋を超えた戦略立案が可能になっていました。

出典ameblo.jp

第二次世界大戦における米国の具体的な計画が立案されたのは1930年代後半でした。

それまでもアメリカ軍はカラーコード戦争計画と呼ばれる、特定の国と戦争状態になった際に発動する複数の作戦計画を立てていました。

このうち日本を仮想敵国とした計画はオレンジ計画、対ドイツはブラック計画、対イギリスおよびカナダとの戦争計画はレッド計画でした。

カラーコード戦争計画は1939年に破棄され、新たに枢軸国となる国を対象としたレインボー・プランとして再構築されます。

これが、米国にとっての第二次世界大戦の事前計画となっていきました。

レインボー・プランにおける対日戦は、日本が想定していた漸減作戦に対抗するものであった。つまり、米軍艦隊は太平洋を西進してフィリピンに到達し、フィリピン方面から北上して日本本土に至り、その過程で日本海軍の補助艦艇による漸減作戦を継続的に受けて戦力を減らされるものの、最終的には日本近海の決戦海域で日本艦隊との間で戦艦を主力兵器とする艦隊決戦が行われ、これに勝てば日本本土を海上封鎖すると言うものである。

軍部が仮想敵国を定め、産業が架空の戦争に備え、資金がそこに流れ込む時代

第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期、米国は空前の好景気でした。産業界は、金を回すことに励み、政府主導の戦争計画のために膨大な資金が流れました。

投資されたそのカネはやがて、回収されなければなりません。企業や投資家は一生懸命回収の方法を模索し始めます。

B-29の開発開始

アメリカ陸軍は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。

「プロジェクトA」は、1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、長距離渡洋爆撃を想定していました。後に対日戦線で活躍することになるB-29の開発のはじまりでした。アメリカ合衆国は、この頃から、すでに南北アメリカだけでなくはるか地球の裏側まで視野に入れた軍事的拡大をもくろんでいたのです。

ボーイング社はアメリカ陸軍航空隊向けにXB-15を試作しました。

太平洋戦争の7年前には、合衆国は長距離渡洋爆撃を想定していたのです。

戦前から開発開始していた超長距離大型爆撃機開発 B-29

B-29は、太平洋戦争と朝鮮戦争における代表的な戦略爆撃機となりました。

パナマ運河を手に入れた合衆国にとって、領域拡大の限界は、太平洋・大西洋をまたげる水準に達していました。アメリカ合衆国は、第一次世界大戦が終わるとすぐに、それまで考えられなかった大型爆撃機開発を開発し始めました。

マンハッタン計画

1942年、アメリカ合衆国は、原子爆弾の製造に着手します。時の大統領はフランクリン・ルーズベルトでした。一連のプロジェクトはマンハッタン計画として知られます。

国家予算の10倍の資金を、納税者に秘密のまま動かすことができた

デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画、一部の巨大財閥が、政府の巨額資金を秘密裏に用いて、技術開発に投じました。

米国の核開発計画(マンハッタン計画)は、明るみになった史上最大の陰謀でした。関係者のほとんどが、その計画を知らずに関わり、トルーマン副大統領も、後に大統領に就任するまで計画の実態を知らなかったと言います。実に米国の年間国家予算の10倍という資金が、納税者のまったく関与できない形で投入されていたのです。

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